第7話:【見えない扉と焦燥の刻】
食い尽くした弁当の空き容器が、狭いキッチンのテーブルに山を築いていた。 腹は満たされた。だが、高橋翔太の胸の内にある焦燥感は、膨れ上がる一方だった。
「どうすれば、あそこに戻れるんだ」
高橋は部屋の真ん中に立ち、自らの手を強く握り締めた。 あの迷宮に戻り、置き去りにしてしまった女魔法使いを助けなければならない。自分を見捨てなかった唯一の存在を、あの地獄に一人にしておくわけにはいかなかった。
だが、戻り方がわからない。 異世界に召喚された時は、会社をクビになり、雨に打たれ、絶望の中で眠りについた時だった。気づけば石造りの床に転がされていたのだ。
高橋は目を閉じ、意識を集中させた。 異世界で感じた、あの重力魔法の感覚。空間を捻じ曲げるような、どす黒く重い力の奔流。それを再現しようと、全身に力を込める。
「……っ、うおおおお!」
血管が浮き出し、全身から汗が噴き出した。 部屋の空気がわずかに震え、床に置いた空のペットボトルがベコリと凹んだ。レベル4に上がったことで、現実世界でも微かに力が漏れ出している。 しかし、景色は変わらない。ボロアパートの、カビ臭い壁がそこにあるだけだ。
「呪文か? それとも、何か特別な動作がいるのか」
高橋は思いつく限りの動作を試した。 召喚された時のように床に這いつくばってみる。窓を開け、夜空に向かって手を伸ばしてみる。しかし、どれほど強く願っても、次元の壁は微動だにしなかった。
異世界に行くための「トリガー」が、自分自身の意思とは無関係な「眠り」にあるということに、今の高橋はまだ気づいていない。
「……クソっ」
高橋はベッドに腰を下ろした。 力が手に入ったというのに、肝心な時にそれを使えない。 自分を「豚」と呼び、奈落へ蹴り落としたあの王女たちの冷笑が脳裏をよぎる。今この瞬間も、彼女たちは暖かい場所で笑い、あの女魔法使いは暗闇で魔物に怯えているのではないか。
その想像が、高橋の腹の底にある義憤をさらに燃え上がらせた。 だが、その怒りとは裏腹に、身体には急激な倦怠感が忍び寄っていた。
一晩で8キロもの体重を減らし、肉体を細胞レベルで作り替えた反動だ。大量の食糧を摂取したことで消化にエネルギーが回され、さらに先ほど無闇に力を放出したことで、限界が近づいていた。
「まだだ……まだ、眠るわけには……」
高橋は重くなる瞼を必死に押し上げた。 戻り方もわからないまま眠ってしまえば、二度とあそこへは行けないのではないか。そんな恐怖が彼を襲う。
しかし、レベル4の肉体再構築はまだ終わっていなかった。 脳内には、本人には聞こえない無機質なシステムメッセージが流れる。
身体同期率:90パーセント。 過剰なエネルギー消費を確認。強制休眠による回復モードへ移行する。
「あ……」
立っていられなくなり、高橋はシーツを剥いだままのマットレスに倒れ込んだ。 抗おうとする意識は、底なしの深い闇に吸い込まれていく。
意識が途切れる直前、高橋の耳に、現実の車の走行音ではない「何か」が聞こえた。 それは、硬い石の床を叩く、無数の足音。 そして、遠くで響く、少女の悲鳴。
「……待って、いろ……」
高橋の魂が、再び現実の肉体を離れ、次元の隙間へと滑り落ちていった。




