第65話:【裏切りの牙と、影の終焉】
── 闇の密談
ヴォルガ軍がニノの蹂躙を受け、キャンプが炎に包まれる中、森の深淵で二つの影が合流した。 一人は、血の臭いを漂わせた虎人のリーダー。そしてもう一人は、整った身なりを崩さない男──ウル・ズールの市民でありながら、ヴォルガ軍と内通するスパイだった。
「……遅かったな。約束のモノは持ってきたか?」
スパイの男が冷淡に問いかけると、虎人は懐から薄暗く発光する小さな瓶を取り出した。その中には、キャンプで殺された「仲間たち」から抽出されたばかりの、生々しい魂が凝縮されている。
「ああ、手間取らせやがって。ガウルやあの女……どいつもこいつも死に際までしぶとかった。……さあ、さっさと報酬を渡しな。これを持って俺はこの国とおさらばだ」
虎人は、キャンプを襲っていた正体そのものだった。彼は金のために仲間を一人ずつ惨殺し、魂を抜き取っていたのだ。
「報酬……? ふふ、あはははは!」
スパイの男は、森に響くほどの下卑た笑い声を上げた。
「獣風情が、本気で報酬など貰えると思っていたのか? 証拠隠滅のついでに魂を集めさせただけだ。……お前に払う金など、最初から一銭もない」
── 隠された牙:影の演算
「……てめぇ、舐めた真似を……ッ!!」
虎人のリーダーの顔から、金に目が眩んだ浅ましい笑みが消えた。代わりに爆発したのは、キャンプの誰もが、そして鋭い観察眼を持つ翔太ですら完全には捉えきれなかった「深淵の力」への絶対的な自負だった。
「後悔させてやる。俺の『影』の餌食になれッ!!」
虎人の足元から、物理法則を無視した漆黒の闇が噴き出した。それは単なる影ではない。「魂を削り取る実体なき刃」だ。影は虎人の意志に従い、零コンマ数秒で複雑な幾何学模様を描きながら、全方位からスパイの男を包囲する。
さらに虎人は、自身の影を切り離して実体化させる奥の手を放つ。本体が正面から注意を引き、死角である背後の地面から「影の分身」が心臓を貫く──。回避不能、防御不能。魔力の残滓すら残さない、暗殺に特化しすぎた完璧な「詰み」の盤面だった。
漆黒の刃が、スパイの喉元を切り裂くかと思われた。
── 蹂躙される誇り:最短の回答
「……計算が甘いな」
スパイの男は、眉一つ動かさなかった。 彼は魔法も、影の対抗策も、特別な能力すら一切使わなかった。ただ、一歩。「影が実体化する直前の、魔力が地面に干渉する瞬間」を冷徹に見切り、最小限の動きで虎人の懐へと滑り込んだ。
「な……ッ!? 俺の影が、反応してない……!?」
虎人が驚愕したのは、男の速さではない。その「効率」だ。 男は影の刃が最も殺傷力を持つ「先端」を避け、あえて攻撃が生まれる「根底」へと足を踏み入れた。影が攻撃として成立するには、脳から発せられた信号が魔力となり、地面を通じて形を成すまでの「遅延」が必ず発生する。
男はそのコンマ数ミリの隙間に、洗練された純粋な体術を叩き込んだ。
「ぐ、あ……ッ!!」
腹部への一撃。それはただの拳ではない。自身の体重、重力、そして踏み込みの反動を一点に集約し、虎人の重心を真下から突き上げる「浸透」の打撃。影の武装は、防御として機能する前に、衝撃によって発生した虎人の肉体の「震え」で霧散した。
「影は便利だが、所詮は本体の従属物だ。お前の呼吸、視線、筋肉の弛緩……それら全てが次の『影の形』を雄弁に物語っている。……能力に頼り、基礎を怠った報いだ」
男は苦悶する虎人の手首を掴み、関節の可動域を完全に無視した角度で捻り上げた。 「ア、ガァァァァッ!!」 悲鳴を上げる暇さえ与えず、男は最小の力で虎人の膝を蹴り折り、その巨体を冷たい泥の上へと沈めた。
「金のために、昨日まで笑い合っていた仲間を殺し、魂を売り飛ばす。……獣というのは、どこまでも浅ましく、そして予測しやすい」
スパイの男は、嘲笑すら浮かべず、ただの作業のように虎人の喉元を指先で圧壊させた。
「……あ、……ぁ……」
虎人のリーダーは、かつての仲間の遺言さえも踏みにじったその報いを受けるように、汚物を見るような目で見下ろされ、何一つ報われることなく、絶望と屈辱の中で事切れた。
── 黄金に憑かれた虎の生涯
彼の人生は、常に「金」という冷たく無慈悲な輝きに支配されていた。 幼少期、飢えに狂う家族の中で泥水を啜り、目の前で身内が銀貨数枚のために売られていくのを見て育った彼にとって、この世で唯一信じられるのは「金」という名の質量だけだった。
軍に身を置いていた時期もあった。ある時は弱きを助ける正義の士として称えられ、またある時は金のために友の喉を掻き切る卑劣な裏切り者として指名手配された。波乱万丈なその歩みの中で、善悪の基準は常に揺れ動いていたが、「金への執着」だけは、一瞬たりともブレることはなかった。
── 磨き損ねた「剣と美学」
彼が決して弱かったわけではない。 正規軍に所属していた経歴を考えれば、基礎的な体術の素養は人並み以上にあったはずだ。しかし、彼は自らの強さに「華」を求めた。
「泥臭い組み合いなどカッコ悪い。剣術の方が、能力の方が、戦場では誰よりもイカして見える」
そんな歪んだ美学が、彼を「本質」から遠ざけていた。大剣を振るう勇壮な姿や、影を操る神秘的な力に溺れ、地味で退屈な体術を「時代遅れ」と切り捨ててきたツケが、この土壇場で回ってきたのだ。 目の前のスパイが繰り出した「ただの拳」──美学も何もない、最短最速で急所を撃ち抜くためだけに練り上げられた暴力の前に、彼の築き上げた「イカした戦闘スタイル」は、砂上の楼閣のごとく瓦解した。
かつて戦場で彼を称えた部下も、彼に命を預けた仲間も、今の彼を見れば絶望しただろう。 最強の「混ざり物」を気取っていた虎は、その実、自らが蔑んだ「基礎」に敗れ、ただの冷たい肉塊へと成り下がった。
スパイは転がった魂の瓶を拾い上げると、興味を失ったように、ウル・ズールの巨大な壁へと歩き出した。




