第63話:【木霊の絶唱】
── 既視感の残響
「クータ、頑張って……あと少し、あと少しなのよ……」
肺を焼くような熱い息が、白く凍てついた空気の中で霧散する。燃え盛る森を抜け、獣道から拓けた石畳の道へと躍り出たその瞬間、女獣人の視界に、かつての日常が「色」を持って飛び込んできた。
そこは、彼女がウル・ズールで過ごした輝かしい日々の中で、幾度となく通り過ぎたはずの「人道」だった。買い出しの重い籠を抱えて笑い、夕暮れの風を頬に受けながら鼻歌を歌った、あの道。
月光に照らされた世界樹の巨大な切り株が、天空を支える壁のようにそびえ立っている。その内殻にある「木霊のテラス」から、かつての仲間たちが奏でる祝祭の調べが、風の悪戯のように耳を掠めた。
だが、その刹那。 希望という名の柔らかな光は、背後から突き刺さった冷徹な「銀灰色の閃光」によって、無残にも引き裂かれた。
「あ、が……ッ!!」
脊髄を、肺を、そして魂を貫く冷たい衝撃。葬儀部隊の放った数条の槍が、彼女の細い背を無慈悲に縫い止める。熱い鮮血が石畳に散り、月明かりを汚していった。
「ねーちゃん!!」
「逃げなさい……クータ! 止まってはだめ……あの壁まで、一気に走るのよ!」
崩れ落ちる膝。視界が急速に狭まっていく。それでも彼女は、縋りつこうとするクータの小さな手を、獣のようながなり声で、あらん限りの力で振り払った。その瞳に宿るのは絶望ではない。後方に散っていった仲間たちの命を背負った、峻烈なまでの「生」への意思だった。
「でも、おじちゃんたちも……ねーちゃんも置いていけないよ……!」
「忘れないで……! 皆が、あなた一人を生かすために、何をこの地に置いてきたのかを……! 行きなさいッ!!」
それは叫びというより、彼女の生命そのものを絞り出した咆哮だった。クータはその気迫に弾かれるように、涙で滲む視界を振り切り、闇の彼方へと駆け去った。
── 走馬灯の旋律
クータの小さな足音が、夜の静寂の中に消えていく。それを見届けた瞬間、彼女をこの世に繋ぎ止めていた最期の糸がぷつりと切れた。
彼女は冷たい石畳の上に、身を横たえる。 溢れ出す紅蓮の温もりが、冬の石の冷たさに吸い取られていく。物理的な痛みは、すでに麻痺していた。遠のいていく意識の縁で、彼女の魂は燃える雪山を脱ぎ捨て、あの懐かしい「木霊のテラス」へと羽ばたいていく。
(……ああ、今日は……なんて心地よい風が吹いているのかしら……)
走馬灯の中、彼女は再び眩いスポットライトを浴びていた。 舞台は満天の星空。拍手、喝采、そして自分を愛し、自分の歌を待っていてくれた観客たちの慈愛に満ちた顔、顔、顔。
彼女の唇が、かすかに震える。 もう声は出ない。肺は動かない。それでも、彼女の心臓の鼓動は、最後の一刻まで「音楽」を刻んでいた。 愛する人々へ。そして、自分を救ってくれたこの世界へ。 彼女は微笑み、最期の力を一滴残らず振り絞って、魂の奥底で最高の絶唱を響かせた。
その旋律は、血の臭いも、鋼鉄の冷酷さも、理不尽な死さえも塗りつぶすほどに優しく、透明で、神々しく。 一筋の涙が頬を伝い、石畳に落ちた瞬間、彼女の絶唱は夜の静寂へと溶け込み──美しき歌姫の鼓動は、静かに、幸福な夢の中で事切れた。
── 塵芥の裁き
「ちっ、死にやがったか。……おい、せっかくの『歌姫』だ。冷める前に少しは楽しませろよ」
静寂を破ったのは、追いついてきたヴォルガ兵たちの、汚泥を煮詰めたような下卑た笑いだった。彼らは冷たくなった亡骸を取り囲み、死者の尊厳を泥靴で踏みにじろうと、その汚れた手を伸ばす。
その時、空間が凍りついた。
ドォォォォォン!!
兵士の一人が、叫び声を上げる暇もなく「見えない巨大な圧力」によって石畳へと叩きつけられた。肉が裂け、甲冑がひしゃげる凄まじい衝撃。だが、その衝撃波は、彼女の亡骸には花びら一枚分ほどの揺らぎすら与えないよう、完璧に制御されていた。
「……何だ!? 伏兵かッ!」
生き残った兵士たちが狼狽え、暗闇を睨む。そこには、夜の闇を纏うようにして静かに歩み寄る、一人の少年の姿があった。
「……後ろの奴らはどうした! 迎撃部隊が十数名いたはずだろう!」
「殺したよ」
そこに立っていたのは、キャンプの仲間であった獣人の少年、ニノだった。




