第6話:【確信と空腹の咆哮】
そもそも、あれは夢だったのか。 高橋翔太は、自らの分厚い掌をじっと見つめた。
もし夢だと言うのなら、この身体の軽さはどう説明すればいい。 以前なら、少し動くだけで膝が軋み、脂肪の重みが全身にのしかかっていた。しかし今は、立ち上がる動作一つにすら無駄な力がいらない。まるで身体を縛っていた重りがいきなり半分になったような感覚だ。
高橋はキッチンへ向かい、古い木製の椅子を手に取った。 かつての自分なら、両手でしっかりと抱えなければ持ち上がらなかった。だが今は、片手の指先だけで軽々と持ち上がる。
「……っ」
無意識に指に力がこもった。 その瞬間、バキリという乾いた音が狭い部屋に響いた。厚さ数センチはある椅子の背もたれが、高橋の握力だけで容易に噛み砕かれていた。
「……夢じゃ、ない」
高橋の口から、掠れた声が漏れた。 確信が全身を駆け抜ける。あの迷宮も、理不尽な王女たちも、そして取り残された女魔法使いも、すべては現実に起きた出来事なのだ。
その確信と同時に、腹の底から獣のような咆哮が上がった。 凄まじい空腹感だ。 レベルが4まで上がり、肉体が細胞レベルで書き換えられた代償として、体内のエネルギーが完全に枯渇していた。高橋はふらつく足取りで玄関に向かい、適当なサンダルを履いて外へ飛び出した。
冬の冷たい空気が頬を刺すが、以前のように身を縮めることはなかった。 むしろ、この寒さが心地よいとさえ感じる。
近くのコンビニエンスストアへ向かう道中、高橋は自らの歩行速度に驚愕した。 普通に歩いているつもりなのに、景色が飛ぶように後ろへ流れていく。足の運びが軽く、地面を蹴る力が以前とは比較にならない。
コンビニの自動ドアが開き、店内の鏡に自分の姿が映った。 112キロ。数字の上ではまだ巨漢だ。しかし、そこに映っているのは、昨日までの「だらしないデブ」ではない。 肩幅が広がり、背筋が真っ直ぐに伸び、何よりその眼光が鋭い。 棚に陳列されたおにぎりや弁当を、高橋は無造作にカゴへ放り込んでいった。
「……これも、これもだ」
カゴが三つ、山盛りになるほどの食糧。 レジの店員が驚愕の表情で高橋を見ているが、そんなことはどうでもよかった。 今の彼にとって、食べることは「生存」であり、次の戦いへの「準備」だった。
会計を済ませ、両手に抱えるほどの袋を持って店を出る。 公園のベンチに座るのももどかしく、高橋はアパートへ戻り、買ってきたものを片端から口に運んだ。
弁当五つ、おにぎり十個、サラダに揚げ物。 それらを驚異的な速度で完食しても、空腹感は完全には消えなかった。 食べた先から、熱となって肉体に溶けていくのがわかる。
「レベル、4……。これだけで、これほどの変化なのか」
高橋は空になった容器を積み上げ、自分の腕を強く握り締めた。 筋肉の奥底で、異世界で発動した魔法の余韻が微かに脈打っている。
田中からの電話。あの卑屈な自分を押し殺して放った拒絶の言葉。 あれができたのは、自分の中に「力」という拠り所が生まれたからだ。
だが、心残りが一つあった。 あの迷宮で自分に縋り、震えていた女魔法使い。 彼女は、自分が消えた後もあの地獄に取り残されているはずだ。 高橋の中で、かつての記憶――他人のために怒り、幼なじみを守った時の熱が再燃し始めた。
「……行かなきゃな」
まだ、人格が劇的に変わったわけではない。 それでも、今の自分には、彼女を救いに行くための理由と、そのための力があった。




