第59話:【世界樹の記憶と、饒舌な案内人】
── 山を識る「影」
断罪の雪山を登る足取りは、標高が上がるにつれて重くなるはずだった。だが、この険しい道中で俺たちの先頭に立ち、まるで自分の庭を歩くかのように軽やかにガイドを務めているのは、あの無口だったエイベルだった。
「翔太さん、そこの岩陰に生えている青いキノコに気をつけて。それは『氷晶茸』といって、触れるだけで指先が凍りつきます。逆に、あちらの赤い実……『冬の灯火』は、一粒食べるだけで体温を保ってくれる貴重な栄養源ですよ」
エイベルは早口で、次々と山に生える植物の効能や危険性を語り始めた。その知識の深さと、あまりの饒舌さに、俺は困惑を隠せない。
(……なんでこいつ、こんなに詳しいんだ? 筆写官じゃなかったのか?)
俺が心の中で抱いた疑念を見透かしたように、エイベルがふらりと俺の隣に寄ってきた。彼は俺にだけ聞こえるような小さな声で、耳元に唇を寄せて囁く。
「……不思議に思いましたか? でも安心してください。これは私の知識ではなく、この肉体の『エイベル』が、奴隷に堕ちる前は深い山々を渡り歩く生活をしていたからですよ。彼の細胞が、この山の歩き方を、植物の味を、疼くように覚えているんです」
エイベルは上目遣いで俺を覗き込み、完璧に整った口角をさらに吊り上げた。
「それに、彼は……元のエイベルは、あなたのことが本当に好きだったようですから。異性としての情愛が、今の私をひどく饒舌にさせている。……私の忠告、忘れないでくださいね」
冷たい吐息と共に残された言葉は、俺の背筋に消えない悪寒を刻みつけた。
── 巨樹の器、ウル・ズール
数時間の登攀を終え、俺たちはついに山頂の尾根へと辿り着いた。 視界が開けた瞬間、獣人たちの間から、嗚咽に近い安堵の溜息が漏れた。
「……あれが、俺たちの国か」
眼下に広がっていたのは、想像を絶する巨大な「切り株」だった。 かつて世界樹と呼ばれたその超巨木は、気が遠くなるほどの年月を経て、山一つを飲み込むほどの巨大な器へと姿を変えていた。 都市は、その切り株の「上」にあるのではない。切り株の内部が広大な空洞になっており、化石のように硬質化した天然の**外壁(樹皮の内側)**に守られるようにして、その内側に幾層もの街が築かれているのだ。その外壁は驚くほど頑丈で、あらゆる外敵を拒絶する絶対的な障壁として機能している。
「見てください。あの外壁の年輪……私が暇な時に数えただけでも、三千層はありました」
エイベルが得意げに、切り株の縁を指差す。
「外壁だけで三千年は立っています。ですが、あの空洞化が進んだ内部、かつての中心核まで含めれば、この樹がどれほどの年齢なのか……もはや数えることすら無意味でしょうね。あれこそが、世界で最も強固で、最も古い『家』なのです」
── 最後のキャンプ:語られる暮らし
目的の国がいつでも視界に入る場所に陣を張り、俺たちは国境を越える前の最後のキャンプを過ごすことに決めた。 目の前に救いがあるという事実は、獣人たちの心を劇的に解きほぐしていた。
「……俺はさ、あそこの外壁のすぐ下にある『土の香通り』で、親父と干し肉を売ってたんだ」 「私は、内殻にある『木霊のテラス』で、毎日歌を歌ってたわ。……あの頃は、お日様の光が、今よりずっと温かかった気がする」
焚き火を囲み、彼らは思い思いに奴隷になる前の、平穏だった暮らしについて語り合い始めた。 ある者は家族との再会を夢見、ある者は失われた日常の断片を慈しむように。 そこにあるのは、俺が Lv. 20 の力で守ろうとした「人間味」そのものだった。
だが、俺の目にはどうしても映ってしまう。 語り合う彼らの、そして俺を信じて微笑むリーズの口角が、相変わらず不自然なまでに左右対称に整っていることが。
「翔太さん、本当に、ここまで来られたのね。……ありがとう」
リーズの言葉に頷きながらも、俺は冷え切った空気を深く吸い込んだ。 俺は、リーズの背中を支えながら、遠くで静かに微笑むエイベルを見た。 彼の口角が、相変わらず不自然に整っている。




