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第58話:【安堵の毒と、最後の山脈】

── 偽りの平穏

監視網を二名一組に変えてから、初めての朝が来た。 誰の絶叫も響かず、誰の命も吸い取られていない。ただ、野鳥のさえずりと焚き火の爆ぜる音だけが、朝の冷気の中に溶けていた。


「……誰も、死んでないのか?」


虎人のリーダーが、信じられないものを見るような目で、焚き火を囲む面々を見渡した。一人、二人、……十三人。全員がそこにいる。


「やった……。エイベルの言った通りだ! 監視を強めれば、影も手出しができないんだ!」 「これでもう大丈夫だ。俺たちは生き残れるんだ!」


広場に、これまでの陰鬱な空気を一掃するような、明るすぎる歓喜の声が爆発した。昨日まで互いの喉元を狙うような視線を送っていた者たちが、肩を組み、手を取り合って笑っている。


だが、その中心で翔太は一人、激しい吐き気に襲われていた。


── 浸食される視界

(……やっぱり、おかしい)


翔太の目には、喜びに沸く彼らの顔が、相変わらず「左右対称の不自然な笑顔」に固定されているように映っていた。 最初は精神的な疲れだと思っていた。だが、顔を洗い、意識を鮮明にしても、この歪んだ視界は一向に治まらない。それどころか、昨日よりもさらにその「笑顔」の角度は鋭く、人間味を欠いたものに変貌している。


(これは俺の疲れじゃない。……何か、外的な原因がある。こいつらの『中身』が入れ替わっているのか、あるいは俺の『認識』そのものが、この世界の何かに侵食されているのか……?)


翔太はその疑念を、ぐっと胃の奥に押し込んだ。 今、この確信を口にすれば、ようやく戻ってきた「結束」という名の危うい平和を、自らぶち壊すことになる。それはリーズを、そして自分自身をさらに追い詰めるだけだ。


「翔太さん、顔色が良くないわ。……やっぱり、無理をしていたのね」


リーズが心配そうに翔太の頬に触れる。その指先は温かい。 だが、その愛しい彼女の瞳の奥に、一瞬だけ「無数の銀河が渦巻くような紋様」が明滅した気がして、翔太は思わず彼女の手を振り払いそうになった。


── 山脈の向こう側

「おい、高橋! 朗報だ!」


虎人が地図を広げ、声を弾ませた。その笑顔もまた、耳元まで引き裂かれたような不自然な吊り上がり方に見えたが、翔太は表情に出さなかった。


「この先にある『断罪の雪山』。ここを越えれば、もうウル・ズールの国境だ。あと一日……いや、順調にいけば今日の夜には、俺たちの故郷に辿り着ける!」


「……そうか。ようやく、着くんだな」


翔太は短く応えた。 故郷への帰還。それは本来、亡命軍にとって最大の希望のはずだ。 だが、山脈を見上げる翔太の胸に去来するのは、言いようのない不安だった。


(このまま、この『混ざり物』たちを連れて国境を越えていいのか? ウル・ズールの先にあるのは救済か、それとも──)


背後で、エイベルが静かに荷馬車を整えている。 彼は一度も翔太と目を合わせようとはしなかったが、その完璧に整った後頭部は、まるで「次のステージの幕が上がる」のを確信しているかのように、静謐な覇気を纏っていた。


「……行くぞ。全員、遅れるな」


翔太の声に、十二人の「笑顔」が一斉にこちらを向いた。 一糸乱れぬ動きで立ち上がる彼らの影は、足元の雪の上に、「巨大な触手」のような奇怪な形を描いて伸びていた。


翔太は、冷たくなった自分の拳を握りしめ、最後の山道へと足を踏み出した。

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