第56話:【非ユークリッドの告白と、歪な求愛】
「……エイベル、お前」
沢の水の音さえも、今は遠く聞こえる。翔太が背後を振り返った瞬間、視界に入ったのは「人間」という概念を根底から覆す異形の光景だった。
エイベルの背中、あるいは衣服の隙間から、ヌルリとした濡れた光沢を放つ数本の黒い触手が、意思を持つ筋肉のように蠢きながら這い出していた。それは空気中の「何か」を味わうように細かく震え、物理法則を無視した角度で屈曲している。
翔太は息を呑み、反射的に拳を固めたが、身体が金縛りにあったように動かない。驚き以上に、その存在が放つ「根源的な違和感」に脳が処理を拒否しているのだ。
「驚かせてしまいましたか? でも、あなたの鋭敏な五感は、すでに私の中の『影』を捉えていたはずです。翔太さん」
エイベルは相変わらず、完璧に整った口角で微笑んでいる。だがその声は、複数の人間が同時に囁いているような、不気味な不協和音を孕んでいた。
── 亡者の器と、滑り込んだ影
「……いつからだ。いつから、エイベルじゃなくなった」
「ああ、誤解しないでください。私は、彼があなた方に救われ、このキャンプに招き入れられたあの日……あんなにも食べ物をたらふく頂いた直後に、すんなりとこの器を借りたに過ぎません」
エイベル──その皮を被った「何か」は、慈しむように自分の身体を撫でた。
「あの夜、彼は幸福でした。ですが、あまりにも長く続いた不調と飢えが彼の肉体を蝕みきっていた。皮肉なものですね。胃袋が満たされたその日の夜、彼の心臓は静かに止まりました。餓死という名の、あまりに遅すぎた終わりです。私はただ、空っぽになったばかりの温かい部屋に、すんなりと滑り込んだだけなのです」
── 絶望の答え合わせ
翔太は荒い呼吸を整え、 Lv. 20 の思考能力をフル回転させた。 目の前の怪物は、隠すことをやめた。ならば、この数日の地獄の正体を暴くしかない。
「……答え合わせをしようか。あの干からびた死体、顔が消えた女性、そして全員の顔が同じ笑顔に見える錯覚。……全部、お前の仕業か?」
触手がピチャリと音を立て、沢の岩を叩く。エイベルは首を横に振った。
「いいえ。私はまだ、このキャンプの誰一人として殺してはいません。私の目的は『観測』。この世界の理が、あなたの質量とリーズの倫理によってどう歪むかを特等席で見守ること……。クトゥルフ、あるいは這い寄る混沌……あなたたちの言語で呼ぶなら、そんなところでしょうか」
エイベルは、ゆっくりと翔太に歩み寄った。
「殺しているのは、私ではありません。……ですが、この肉体に残るエイベルという男の意識が、私の深層でひどく騒がしいのです。彼は……あなたのことが、狂おしいほどに好きだった。英雄としてのあなたではなく、一人の異性としてのあなたを」
── 歪なアドバイス
触手が翔太の耳元で、湿った音を立てて囁く。
「その強烈な情念が、私の人格を色濃く染め上げている。だからこそ、愛しいあなたにだけは忠告しておきましょう。……気をつけてください、このキャンプには、私以外にも**『混ざり物』**が多すぎるようですから。……ふふ、これは元のエイベルの想いゆえの、ささやかなアドバイスですよ」
エイベルは、歪な、しかし情愛に満ちた瞳で翔太を見つめた。
「リーズさんを一人にするのは、本当に悪手でしたね」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、キャンプの方角から、これまで聞いたこともないような、「喉が裂けるような絶叫」が響き渡った。




