表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/6

第5話:【過去の残響と微かな変化】

スマホの画面上で「田中(営業部)」の文字が執拗に点滅を繰り返している。 かつての高橋翔太であれば、この着信音を聞いただけで心拍数が跳ね上がり、手に嫌な汗をかいていただろう。相手が自分をどう罵倒するか、どう謝罪すれば許してもらえるか。そんな思考が脳内を支配していたはずだ。


だが、今の高橋は違った。 身体の内側に、一本の太い「芯」が通ったような奇妙な感覚があった。レベルが4まで上がり、肉体が再構成された副産物だろうか。物理的な強度が上がったことで、精神的な揺らぎがわずかに抑えられていた。


高橋は湿ったシーツの上に座ったまま、震えるスマホを手に取った。 指が勝手に拒否反応を示すことはなかった。彼はゆっくりと、通話ボタンをスライドさせた。


「……はい」


「あ、もしもし高橋さん!? やっと出た。あんた、今どこにいるんだよ! 冗談じゃないって!」


受話器越しに、田中の怒鳴り声が響いた。周囲にはオフィスの喧騒も混じっていた。 かつての高橋なら、ここで反射的に「すみません」と口にしていた。しかし、今の彼の口から出たのは、別の言葉だった。


「田中か。……何の用だ。俺はもう、会社を辞めたはずだが」


自分の声が、以前よりも低く、落ち着いて響くことに高橋自身が驚いた。 電話越しの田中は、一瞬だけ言葉を詰まらせた。高橋のあまりに淡々とした反応が予想外だったのだろう。だが、すぐにさらに高い声で捲し立ててきた。


「辞めたとか関係ないだろ! あんたが昨日直したって言った経理データ、パスワードがかかってて開けないんだよ! それに、一部の数式が複雑すぎて誰も手出しできない。嫌がらせのつもりか? 今すぐ会社に来いよ、このデブ!」


罵倒。いつもなら高橋の心を深く抉る言葉だ。 しかし、今の高橋はその言葉を聞いても、どこか遠い世界の出来事のように感じていた。異世界で魔物の殺気に晒され、理不尽な重圧の中で覚醒した経験が、彼の中に新たな「基準」を作っていた。


田中の怒声は、ハイ・オークの咆哮に比べれば、あまりにも卑小で、軽い。


「パスワードは、引き継ぎ資料の中に記載したはずだ。部長が捨てたのかもしれないが、それは俺の知ったことじゃない。……あと、俺はもうお前の先輩でも同僚でもない。言葉遣いに気をつけろ」


「は。何言ってんだ、お前。調子に乗るなよ、無能のくせに! いいからさっさと来いって言ってんだよ!」


高橋は、スマホを耳から少し離した。 以前の自分なら、ここで恐怖に負けていたかもしれない。人格が完全に変わったわけではない。今でも胸の奥には、長年植え付けられた卑屈な「怯え」が澱のように残っている。


だが、今の彼には、その怯えを上書きする確かな力の記憶があった。 自分の意志一つで、空間を歪ませ、魔物をねじ伏せたあの感覚。


「……断る。用件がそれだけなら、二度とかけてこないでくれ」


「おい! 待てよ! 高橋、おい――」


高橋は田中の声を遮るように、通話終了のアイコンをタップした。 スマホをベッドに放り投げると、彼は大きく一つ息を吐いた。 手は、わずかに震えていた。いきなり最強の精神を手に入れたわけではない。長年の習慣を打ち破るには、まだ相当なエネルギーが必要だった。


それでも、彼は勝った。 自分を縛り付けていた鎖の一つを、自分の意志で断ち切ったのだ。


高橋は立ち上がり、姿見の前で自分の身体をじっと見つめた。 体重は112キロ。依然として巨大な体躯だ。しかし、一晩前とは明らかに密度が違う。 腕に力を込めると、厚い脂肪の下で、鋼のように硬い筋肉が蠢くのがわかった。


「レベル、4か……」


まだ、たったの4だ。 だが、この微かな変化が、絶望に塗り潰されていた彼の人生に、決定的な亀裂を生じさせていた。


急激な空腹感が高橋を襲った。 肉体の再構築に栄養を使い果たしたのだろう。彼は部屋にある僅かな備蓄を探そうとしたが、ふと、異世界に置き去りにしてきた彼女のことが脳裏をよぎった。


自分を見捨てなかった、唯一の存在。 高橋は窓の外、冬の濁った空を見上げた。


そもそもあれは夢だったのか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ