第40話:【泥舟の反乱と、無自覚な覇王】
── 崩壊寸前のオフィス:手のひら返しの円舞曲
ブラック・ロジスティクス社の開発フロアは、もはや戦場というよりは「沈没船」の様相を呈していた。
「部長、もう限界です。営業からの突き上げも、クライアントからの催促も、田中さん一人じゃ全く捌けていません。……やはり、高橋さんを呼び戻すべきではないでしょうか?」
元チームの社員たちから、ついにそんな声が上がり始めた。かつて翔太を「便利屋」として酷使していた彼らも、実務が完全にストップし、自分たちの評価が地に落ちるのを恐れ、なりふり構っていられなくなったのである。
「……黙れ! 呼び戻すだと? あの無能で不潔な豚をか!? 私の判断が間違っていたと言うのか!」
谷村部長は顔を真っ赤にして怒号を飛ばす。彼は自分のプライドを守るため、翔太を切り捨てたことが最大の失策であると認めるわけにはいかなかった。
「そうですよぉ、部長の言う通りです。あんな不潔な人が戻ってきたら、オフィスの空気が淀みますって。仕事も大事ですけど、生理的な嫌悪感はどうしようもないですし」
周囲の女性社員たちが、谷村に同調するように冷笑を浮かべる。彼女たちにとって、以前の翔太は「そこにいるだけで不快な存在」であり、職務能力よりも自分の感情的な快適さを優先していた。
だが、その沈黙を破ったのは、誰よりも翔太を軽んじていたはずの「エース」田中だった。
「……呼び戻してください。部長、僕一人じゃ……何も出来なかったんです」
田中は力なく、しかし切実な声で告げた。その端正な顔は連日の徹夜と心労でやつれ、かつての自信は微塵も残っていない。
「高橋さんがいたから、僕はエースでいられた。彼が泥を被ってくれていたから、僕は綺麗な仕事ができたんです……。お願いです、僕のプライドなんてどうでもいい、彼を戻さないとこの会社は死にます!」
田中の「猛烈な反省」と魂の叫び。それを見た瞬間、先ほどまで谷村に共感していた女性社員たちの態度が豹変した。
「えっ……田中さんがそこまで言うなら、確かに必要かも……」 「そうよね、高橋さんって意外といい人だったし。田中さんが困ってるなら、戻ってきてもらうのが一番いいんじゃない?」
露骨すぎる手のひら返し。谷村は、彼女たちのあまりに自分勝手な変節に、内心で激しい殺意を抱いた。
(谷村の内心) このビッチ共が……! さっきまで私の機嫌を取っていたくせに、田中の泣き言一つでこれか!
谷村は奥歯を噛みしめる。全員が翔太の復帰を求めている。だが、彼はまだ考えていた。いかにして「自分の非を認めず」、あたかも「哀れな高橋に温情をかけて再雇用してやる」という体裁で呼び戻すかを。
映画館の暗闇:制御不能な鼓動
そんな泥沼の状況など知る由もない翔太は、映画館のシートに深く腰を下ろしていた。
上映されているのは、ド派手なアクション超大作。本来ならその迫力に没頭するはずだったが、翔太は自分の肉体に起きた「異変」に神経を尖らせていた。
(翔太の感覚) ……身体が、熱い。Lv. 20に上がった時のエネルギーが、まだ内側で暴れている。
鋼のように硬化した筋繊維が、時折、自分の意志とは無関係にピクリと脈打つ。肉体の再構築が完了しきっていないのか、溢れ出す質量が逃げ場を求めて暴走しそうになっていた。
そんな中、隣に座る陽葵が、震える指先でそっと翔太の右手に触れた。 暗闇の中、彼女の顔は熟した林檎のように真っ赤に染まっている。今日という日の締めくくりに、彼女なりに勇気を振り絞った「攻め」の行動であった。
「……っ!」
陽葵の指先が触れた瞬間、翔太の全身に電気が走ったような衝撃が突き抜けた。レベルアップの反動による感覚過敏。翔太の反射神経は、彼女の柔らかな掌を、守るべき「守護対象」として、あるいは逃がしてはならない「何か」として、過剰に認識してしまった。
ガシッ!!
「ひゃうっ……!?」
無意識のうちに、翔太の太い右手が、陽葵の手を力強く、そして情熱的に握り返した。 それは、並の男なら骨が軋むほどの剛力。だが、今の陽葵にとっては、それは翔太からの「烈火のごとき愛情表現」に他ならなかった。
(陽葵の脳内) う、嘘……! 翔太、こんなに強く……。しかも、手がすごく熱い。こんなの、もう……あたしのこと、離さないって言ってるようなもんじゃない!
陽葵はあまりの熱量に、脳がとろけそうになる感覚を覚えた。握りしめられた手から伝わる、岩盤のような硬さと、猛獣のような脈動。彼女は翔太の肩に頭を預け、今にも破裂しそうな心音を必死に抑えていた。
一方の翔太は、冷汗を流しながらパニックに陥っていた。
(翔太のパニック) しまった……! また力が……。陽葵の手、折れてないか? なんでこんなに熱くなるんだ俺の身体は。離さなきゃいけないのに、指が痙攣して動かない……!
暗闇の中で、二人の思惑は180度異なる方向へ爆走していく。 上映が終わる頃、陽葵は恍惚とした表情で翔太に寄り添い、翔太は自身の「制御不能な肉体」に絶望していた。




