第39話:【崩壊する砂上の楼閣と、消えた歯車】
── 凍りつく役員会議室
翔太が陽葵と「普通の日常」を取り戻そうと奮闘しているその頃。彼がかつて身を削って働いていたIT企業「ブラック・ロジスティクス社」では、未曾有の危機が訪れていた。
「……申し訳ございませんでしたッ!」
重厚な大理石のテーブルが並ぶ役員会議室。谷村部長は、隣に立つ社長と共に、役員たちに向けて深々と頭を下げていた。翔太が去ってからの数週間、社内の実務は目を疑うほどに停滞していた。
「谷村君、この数字はどういうことだね。今月の営業利益が、前月比で30%も落ち込んでいる。特に営業部との『仕様のすり合わせ』が完全にストップしているせいで、大口の顧客が三社も他社へ乗り換えたという報告が入っているぞ」
役員の一人が、冷徹な数字を突きつける。 この会社において、翔太の役割は単なるエンジニアではなかった。営業部が適当に取ってきた無理な案件を、裏で現実的な仕様に落とし込み、顧客との板挟みになりながら「現場が回る形」に調整する。その泥臭い調整役こそが、会社の売上を支える生命線だったのだ。
「それは……その、引き継ぎが不十分だった可能性がありまして……」
谷村が冷汗を流しながら言い訳を口にする。しかし、社長がその言葉を遮るようにデスクを激しく叩いた。
「引き継ぎだと!? 私がこの会社を上場させ、財界でのキャリアを盤石にするための大事な時期に、こんな無様な数字を出してくれたな! 顧客満足度の低下は私の顔に泥を塗る行為だぞ!」
社長が怒っているのは、会社のことではない。自らの輝かしい経歴に傷がつくことへの恐怖だ。谷村は平身低頭しながらも、内心では激しい困惑に襲われていた。
(谷村の内心) ……納得がいかない。私は、あの無能で目障りな豚(翔太)を追い出しただけだ。不潔なコストを削減して、職場の空気を綺麗にしただけじゃないか。なぜ、たかが豚一人がいなくなっただけで、これほどまで顧客が離れていくんだ……!
谷村にとって、翔太は「ただそこに座っているだけの脂肪の塊」でしかなかった。その塊が、どれほど精密に顧客と開発の歪みを埋めていたのか、彼は今になっても理解できていなかった。
── 落ちぶれたエースと、陰口の洗礼
一方、開発チームのデスクでは、かつて将来有望なエースと持て囃されていた田中が、パソコンの画面を前に青ざめていた。
清潔感溢れる端正な顔立ち、そつのない仕事ぶり。田中は確かに無能ではない。しかし、彼がエースとして輝けていたのは、翔太が事前に営業との面倒な交渉を全て済ませ、田中が「綺麗な仕事」だけをできるように整えていたからに他ならなかった。
「……田中さん、この案件の進捗、また遅れてますよ。営業部から『前みたいに柔軟な調整ができないなら契約を切る』って言われてます」
部下からの報告に、田中は何も言い返せない。顧客の無理難題を笑顔でかわし、裏で徹夜してシステムを修正していた翔太がいなくなり、田中は連日のように営業部との罵り合いに疲弊していた。
「見てよ、あのチーム。高橋がいなくなってから、実務が何も回ってないじゃない」 「結局、田中も谷村部長も、高橋に汚れ仕事を全部押し付けていただけなんだよ。自分でやってみたらこの様か」 「今じゃただの『顔がいいだけの置物』だね。実力もないのにエース気取りだったなんて、笑っちゃうよ」
他チームからの嫉妬は、今や露骨な蔑みへと変わっていた。田中は周囲の陰口に耳を塞ぎたい衝動に駆られながら、かつて自分が蔑んでいた「あの男」の不在が、これほどまでに致命的であったことを、痛いほどに思い知らされていた。
── 幕間の日常
そんな元職場の惨状など露知らず、翔太は陽葵に連れられて、賑やかな映画館のロビーにいた。
「翔太、次はポップコーンのLサイズね! ほら、ボサッとしてないで」
「あ、ああ。……なんだか、背中が少し寒気がするんだ。誰かに恨まれてるような、嫌な予感がする」
「あんたのその筋肉で風邪なんて引くわけないでしょ。ほら、上映が始まるわよ!」




