第36話:【試着室の密室、暴走する本能】
── セレクトショップの震撼
二人が足を踏み入れたのは、都内でも有数の高級セレクトショップであった。洗練された内装、静かに流れるジャズ。普段の翔太であれば、入り口のマットを踏むことさえ躊躇したであろう空間である。
「……陽葵、やっぱり他に行かないか? ここ、シャツ一枚で俺の数日分の食費が飛ぶぞ」
翔太が小声で訴える。しかし、陽葵は聞く耳を持たなかった。
「いいから黙って着なさい。今のあんたには、これくらい上質な生地じゃないと釣り合わないの」
陽葵は迷いのない手つきで、スリムフィットのイタリア製白シャツと、濃紺のテーパードパンツを選び取る。そのサイズは、店内で最も大きなLサイズであった。
「いらっしゃいませ。……お客様、失礼ですが、そちらのサイズでは少々……」
声をかけてきた女性店員は、翔太の顔を直視した瞬間に言葉を失った。至近距離で浴びせられる、野生の気高さと清潔感が混ざり合った圧倒的な男性ホルモンの香り。店員の頬が瞬時に朱に染まる。
「……少々、小さすぎるかと。奥から特注のXLをお持ちいたします!」
店員は、弾かれたようにバックヤードへと走った。翔太はそれを見て、深く溜息をつく。
ほら見ろ。XLじゃないと入らないなんて、やっぱり俺はまだデブなんだ。店員さんも、あんなに顔を赤くして……きっと俺の不潔さに耐えられなかったんだ。
自己評価底辺の翔太は、店員の「ときめき」を「拒絶」と変換し、ますます肩を窄めて試着室へと押し込まれた。
── 試着室の密室劇
カーテンで仕切られた狭い試着室。翔太は手渡されたシャツに袖を通す。しかし、[Lv. 20] の筋密度は、現代の既製服の常識を遥かに越えていた。
「……っ。ボタンが、止まらない……」
腕を通しただけで、袖口のボタンが弾け飛びそうなほどの圧力がかかる。なんとか一番下までボタンを掛けようとするが、大胸筋の厚みが邪魔をして、指先に力が入らない。
「ちょっと翔太、何してるのよ。遅いわね、入るわよ」
「えっ、おい、陽葵!」
制止する間もなく、陽葵がカーテンをこじ開けて入り込んできた。一畳ほどの密室に、二人の身体が密着する。
「……っ」
陽葵の呼吸が止まる。 目の前には、シャツの前をはだけさせた翔太の、彫刻のような肉体があった。波打つ腹筋、血管の浮き出た太い腕、そして熱を帯びた鋼のような肌。
「あんた……これ、全然サイズが合ってないじゃない。ほら、じっとしてなさい。あたしが留めてあげるから」
陽葵は震える指先を伸ばし、翔太の胸元に触れる。 指先に伝わるのは、地響きのような翔太の鼓動と、岩盤のように硬い大胸筋の弾力である。あまりの熱量に、陽葵の頭の中が真っ白に染まっていく。
「……ひ、陽葵。やっぱり無理だよ。こんな高い服、俺には……」
「……黙って。……あんたは、自分がどれだけ素敵か、ちっとも分かってないんだから」
陽葵は顔を上げ、翔太を睨みつける。その瞳は潤み、熱烈な独占欲が隠しきれずに溢れ出していた。至近距離で見つめ合う二人。翔太は、陽葵の甘い香りと、その真剣な眼差しに、異世界の強敵と対峙した時以上の動悸を感じていた。
── 決壊する理神
その時である。
パチン、パチン!
翔太が深く呼吸をした瞬間、無理やり留めていたシャツのボタンが、その圧倒的なバルク(質量)に耐えきれず、景気よく弾け飛んだ。
「……あ」
「……あ」
弾けたボタンが壁に当たり、虚しく床を転がる。翔太の逞しい胸板が完全に露わになり、陽葵の視線は釘付けになった。
「……やっぱり、弁償だよな、これ」
情けなく項垂れる翔太。しかし、陽葵はもう限界であった。
「もう……バカ……! 弁償なんてあたしがしてあげるわよ! だから……」
陽葵は翔太の胸に顔を埋め、その鋼のような肉体を強く抱きしめた。
「……どこにも行かないで。あの夢みたいに、いなくならないでよ、翔太……」
陽葵の小さな震えが、翔太の肌に直接伝わる。悪夢でリーズを助けられなかった翔太にとって、目の前の陽葵を守りたいという本能が、[Lv. 20] の力を静かに、しかし激しく励起させた。
その光景を、試着室の外で「追加のシャツ」を持って待っていた女性店員は、鼻血を抑えながら呆然と見守るしかなかった。




