第3話:【義憤の記憶と静かなる鼓動】
高橋翔太の意識の底に、セピア色の記憶が浮上した。
それは小学二年生の頃だ。当時から身体の大きかった高橋は、クラスの目立つグループから「のろま」「デブ」と囃し立てられていた。だが、彼は一度も言い返さず、ただ困ったように笑っていた。自分の尊厳を削られることに対して、彼は異常なほど鈍感で、そして忍耐強かった。
しかし、ある放課後の裏庭。自分をからかっていた上級生たちが、幼なじみの少女を囲み、彼女が大切にしていた筆箱を泥の中に投げ捨て、泣かせているのを見た瞬間、高橋の脳内で何かが断裂した。
理屈ではなかった。自分の教科書を隠された時も、椅子を引かれた時も動かなかった拳が、その時は無意識に握り締められていた。
「やめろ」
地を這うような声と共に、高橋は自分より大きな上級生に体当たりを食らわせた。何度も殴られ、鼻血を出し、泥まみれになりながらも、彼は一歩も引かなかった。上級生たちがその気迫に気圧されて逃げ出すまで、彼は獣のような眼光で立ち塞がり続けた。
他人のために怒り、他人のために傷つく。それが、高橋翔太という男の魂に刻まれた歪で純粋な「正義」だった。
迷宮の最下層。高橋を包む青白い蒸気が、冷え切った空気を震わせた。
「……あいつら、絶対に許さない」
その怒りの正体を、隣で呆然と見上げる女魔法使いはまだ知らなかった。 高橋が拳を握り締めた理由は、自分が「豚」と呼ばれ、奈落に落とされたからではない。
共に戦ってきたはずの仲間を、なんの躊躇もなく、囮として見捨てて逃げたあの四人の卑劣さ。高橋の脳裏には、深夜のオフィスで自分に笑顔を向けながら、裏では「無能な癌」と切り捨てた田中の顔が重なっていた。
「自分勝手な理由で、人を使い捨てにするな」
高橋の言葉に反応するように、網膜のシステムログが加速した。
【――『利他的な憤怒』を検知】 【スキル:我慢の対価の変換効率が上昇】 【重力魔法:支配者の引力。出力を一部制限解除】
高橋が一歩を踏み出した。 実際のところ、今の彼の魔力では、広範囲の魔物を全て殲滅するにはまだ至っていない。先ほどの衝撃波で圧殺できたのは数十体。残りの数百体は、ただ一時的な重圧に圧倒され、恐怖で硬直しているに過ぎなかった。
それでも、高橋が纏うオーラはもはや「獲物」のそれではない。 一歩、また一歩と進むごとに、石床に深い足跡が刻まれた。
「ひっ……あ、あの……」
女魔法使いが震える声を出したが、高橋は振り返らなかった。彼はただ、魔物たちの中心に立ち、静かに右手を掲げた。
「散れ」
ドォォォォォン!!
今度は衝撃波ではない。中心点に向けて空間が爆縮するような不可視の圧力が生じた。 直撃を受けた数体が肉塊へと変わり、その凄まじい光景に正気を取り戻した魔物たちが、本能的な恐怖に突き動かされて蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
高橋の身体を支える120kgの肉体が、急速に熱を帯びる。
同時刻。現実世界のボロアパート。
眠り続ける高橋翔太の肉体は、限界を超えた熱を発していた。 パキパキという、骨が軋む不気味な音が部屋に響いた。 重力魔法の反動とレベルアップの恩恵が、現実の肉体を強制的に再構築していく。
どす黒い老廃物が、ベッドシーツを汚していく。 だが、その汚れと引き換えに、埋もれていた鎖骨が浮き出し、丸太のようだった腕には太い血管と筋肉の筋が浮かび上がった。 かつての卑屈な「デブ」の面影は、一秒ごとに削ぎ落とされていく。
【第一次・肉体再構築:進行率70パーセント】
異世界の迷宮で、高橋は逃げ出した魔物たちの背後を見つめた。 その先には、今頃安堵して迷宮を抜けようとしている、あの四人がいるはずだ。
「……まずは、ここを出るぞ。お前、立てるか?」
高橋が初めて女魔法使いに向き直った。 その瞳には、かつて裏庭で幼なじみを守った時と同じ、静かで激しい灯が宿っていた。




