第16話:【鋼の対峙と、燻る過去】
現実世界の、湿った朝の空気が震えていた。 アパートの階段を乱暴に駆け上がってくる数人の足音。そして、安っぽいマフラーの爆音が、静まり返った住宅街に響き渡る。
「……翔太、誰か来たみたいだけど」
陽葵が不安げに立ち上がり、窓の外を覗こうとした。その肩に、翔太の熱い掌が置かれる。
「陽葵、下がってろ。……俺が出る」
翔太の身体は、異世界でのレベルアップと栄養摂取が噛み合い、制御不能なほどのエネルギーを内包していた。立ち上がるだけで、スウェットの繊維が「ミシミシ」と悲鳴を上げる。
ドアが蹴破らんばかりの勢いで叩かれた。
「おーい、デブ翔! 生きてんのか? 会社辞めて引きこもってるって聞いたからよぉ、慰めに来てやったぜ!」
下卑た笑い声。それは高校時代、翔太を「サンドバッグ」扱いしていた主犯格、木戸の声だった。後ろには、当時からの腰巾着たちが数人つるんでいる気配がする。
翔太は無言で鍵を開け、ドアをゆっくりと引いた。
「……なんだ、木戸か」
ドアの隙間から現れたのは、かつての「怯えたデブ」ではなかった。 木戸たちが目にしたのは、入り口を完全に塞ぐほどの、圧倒的な「肉の壁」――。 いや、それは以前のような締まりのない肉ではない。 スウェットの上からでも、その下が「鋼鉄の塊」で構成されていることが一目で分かる、暴力的なまでの質量の塊だ。
「……あ?」
木戸の嘲笑が、喉の奥で凍りついた。 見上げるほどに高くなった(ように感じる)視線。鋭利な剃刀のような眼光。 そこには、かつて自分たちが笑いながら殴りつけていた「餌」の面影など、どこにもなかった。
「て、てめぇ……なんだそのツラは。生意気にダイエットでもしたか?」
木戸は動揺を隠すように、翔太の胸元を突き飛ばそうとした。 だが――。
「……っ!?」
木戸の掌が翔太の胸に触れた瞬間、彼は悲鳴を上げそうになった。 まるで、真夏に熱せられた鉄柱を全力で叩いたかのような衝撃。翔太の肉体は微動だにせず、逆に木戸の指関節が衝撃で「パキッ」と嫌な音を立てた。
「……帰れ。今の俺は、お前らと遊んでやるほど暇じゃないんだ」
翔太が、一歩踏み出す。 その瞬間、木戸たちは反射的に数段、階段を転がり落ちるように後ずさった。 理屈ではない。彼らの本能が、目の前の存在を「人間」ではなく、いつ襲いかかってくるか分からない「大型の猛獣」だと認識したのだ。
その背後で、陽葵が息を呑んで翔太を見つめていた。 自分を馬鹿にしていた連中を、言葉一つ、拳一つ使わずに圧倒する翔太。その背中に、彼女は得も言われぬ昂揚と、熱い感情の昂りを感じていた。
一方、その頃──異世界の巨木の洞。
翔太が現実世界で「過去」と対峙している間、彼の魂が不在の肉体は、リーズの膝の上で深い眠りについていた。
「……温かい」
リーズは、眠る翔太の胸の鼓動を聞きながら、そっと彼の頬に手を添えた。 外はまだ追跡者の気配が残っているかもしれない。魔力回路が焼けるような痛みは残っている。 けれど、彼女の心は、かつて王宮の豪華なベッドで寝ていた時よりも、ずっと穏やかだった。
彼女の家系――名門魔導師の血。 それは、常に「効率」と「純度」を求められ、歪み(イレギュラー)を持った彼女を「不浄」として切り捨てた。 だが、この眠れる怪物は、彼女の歪みを責めず、ただその手を引いてくれた。
「高橋さん……。あなたが次に目覚める時、私はもっと……」
リーズは、自分の杖を握りしめた。 現実世界で翔太が「守るべき日常」を取り戻そうとしているように、リーズもまた、この過酷な異世界で、彼の「盾」となれるだけの力を欲していた。
家系に捨てられ、国に捨てられた二人が、暗い木の洞で肩を寄せ合う。 それは、偽りの恋慕などよりもずっと深く、血の匂いと泥に塗れた「共犯者」の絆だった。
[宿主の周囲に敵対個体の殺意を検知。] [現実世界での戦闘介入の可能性を考慮し、筋力リミッターを一時解除します。]




