第10話:【残された光と歪む日常】
現実世界の自室。 高橋翔太は、昨夜までの自分が着ていたTシャツを脱ぎ捨て、鏡の前に立っていた。
そこにあるのは、自堕落な生活で膨れ上がった無様な肉体ではない。 異世界での死闘を経て、システムが冷徹に削り出し、高密度に再構成した「戦士」の肉体だ。 分厚い大胸筋。彫刻のような腹筋。そして、かつての面影を残しながらも、猛禽類のように鋭くなった眼光。
[現在、現実世界へのコンバートを完了。] [現実世界での基礎身体能力が大幅に向上しています。]
鏡の中の自分を見つめ、翔太は静かに拳を握る。掌に伝わる感触だけで、自分が「別人」になったことを確信した。
その時、玄関のドアを執拗に叩く音が響いた。
「翔太! 開けてよ! いるんでしょ!」
幼なじみの陽葵の声だ。高橋の両親から、彼が会社を辞めたと聞きつけて飛んできたのだろう。彼女とは、彼が引きこもるようになってから疎遠になっていた。 だが、かつていじめっ子から彼女を助けたあの日から、彼女の心の中には常に「高橋翔太」という存在があった。
「おばさんに鍵、借りてきたわよ。入るからね!」
ガチャリと鍵が開く音。翔太は慌ててスウェットを被る。しかし、以前ならダボダボだったはずの布地は、今や彼の強靭な肩幅にぴっちりと張り付いていた。
「翔太……あんた、会社辞めたって……って、え……?」
部屋に踏み込んできた陽葵が、言葉を失った。 目の前に立つのは、心配していた「覇気のない幼なじみ」ではなかった。 スウェット越しでも容易に想像できる、圧倒的な筋肉の厚み。 精悍になった顔つき。そして、何より自分を真っ直ぐに見据える力強い視線。
「……陽葵。連絡もしないで悪かった」
少し困ったように眉を下げる翔太。その「中身」が変わっていない優しさに触れた瞬間、陽葵の心臓がうるさいほどに跳ね上がった。
(な、なによ……今の翔太、めちゃくちゃカッコいいじゃない……)
顔が急激に熱くなる。かつて守ってもらった時の憧れと、今目の前にいる「完成された男」としての翔太への想いが混ざり合い、陽葵は叱りに来たことも忘れて、視線を泳がせた。
「な、なによその身体……。あんた、あたしがいない間に勝手に……。あたし、まだあんたに昔の借り、返してないんだからね! 一人でそんなに立派にならないでよ!」
赤くなった顔を隠すように怒鳴る陽葵。だが、その瞳には、かつて以上の熱烈な好意が滲み始めていた。
一方、異世界の冷たい森。 木陰で深く眠り続ける翔太の隣で、女魔法使い――リーズは、泥に汚れた杖を抱きしめて座り込んでいた。
迷宮を出た直後、彼は糸が切れたように意識を失い、深い眠りに落ちてしまったのだ。 リーズは、彼を隠すように木の枝でカモフラージュを施し、残り少ない魔力で周囲を警戒し続けていた。
「……まだ、起きないのですね、高橋さん」
リーズは、眠る彼の逞しい腕に巻かれた包帯をそっと整えた。 迷宮の中で、彼は何度も彼女の盾になった。「動く脂身」と自分を切り捨てた王族たちとは違い、この男だけは彼女を「一人の人間」として守り抜いた。
王宮魔導師の家系に生まれながら、「不浄の烙印」を持っていたリーズ。 身内からも王族からも、体裁のために迷宮へと捨てられた孤独な彼女にとって、翔太の差し出してくれた手の熱さは、生まれて初めて触れた「救い」そのものだった。
リーズは、翔太の静かな寝息を聞きながら、膝を抱えた。 彼が起きたら、自分の忌まわしい身分や、追われている事情を話すべきだろうか。 それを知れば、彼もまた自分を捨ててしまうのではないか。
「……次は、私が貴方を守れるようにならないと」
リーズの独り言は、夜の風に消えていった。彼女はまだ知らない。この男が今、別の世界で一人の女性から、熱い眼差しを向けられていることを。




