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第1話:【積年の献身、紙クズの如く】

2025年、冬。 深夜2時のオフィスには、安価な蛍光灯のジーという不快な音と、加湿器の切れた乾いた空気だけが漂っていた。


「……よし、これで、整合性はとれたはずだ」


120kgの巨体を窮屈な事務椅子に沈め、高橋翔太は震える指でエンターキーを叩いた。 それは、営業部のエース・田中が「面倒くさい」と放り出し、谷村部長が「高橋、お前なら暇だろう」と押し付けてきた、過去5年分の不透明な経理データの修正作業だった。


高橋は、脂ぎった額の汗を袖で拭う。鏡を見ずともわかる。今の自分は、徹夜明けで顔はテカり、薄くなった頭頂部からは嫌な臭いが立ち上っているだろう。同僚たちが「歩く公害」と陰口を叩くのも、悲しいかな、今の自分を見れば否定できなかった。


だが、仕事だけは完璧にこなした。この10年間、彼はそうやって自分の「居場所」を必死に守ってきたのだ。


翌朝、午前9時。 会議室には、パリッとしたスーツを着こなす社員たちが集まっていた。


「――以上の通り、不明瞭だった経理の不備を、僕が徹夜で全て精査しました」


壇上で、田中が爽やかな笑顔でプレゼンをしている。プロジェクターに映し出されているのは、高橋が数時間前まで吐き気を催しながら作り上げた資料そのものだった。


「素晴らしい! さすが田中君だ。君のような『会社の顔』になれる男がいてくれて助かるよ」


谷村部長が満足げに頷く。資料を作成したのが高橋であることは、部長も、そして田中から「これ高橋さんにやらせといたんで」と聞いていた周囲の人間も知っている。だが、誰もそれを口にしない。清潔感があり、将来有望な田中の手柄にする方が、チーム全体の「見栄え」が良いからだ。


高橋は壁際で、空になったコーヒーカップを回収する雑用をこなしながら、ただ俯いていた。


会議後、部長室に呼び出された。


「高橋君。……単刀直入に言おう。君、今日限りで辞めてくれないか」


心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


「え……? 理由を、伺ってもよろしいでしょうか」


「理由? 鏡を見てから言ってくれないか。その体型、その清潔感のなさ。先日、来客から『あの不潔な方はどこの業者ですか?』と苦情が来たんだよ。君がいるだけで、わが社のブランディングは損なわれる。……ああ、それから」


部長は、田中が手柄にした資料を指差した。


「田中君が言っていたよ。『高橋さんの入力ミスがあまりに多くて、僕が全部やり直す羽目になった。あんな無能な30代は組織の癌だ』とな。君、彼に謝っておきなさい」


真っ白になった。 深夜、自分に缶コーヒーを差し出し「高橋さんだけが頼りっすよ!」と笑っていた田中の顔が、脳裏で醜く歪んだ。


「部長……あの資料は、僕が……」 「言い訳は見苦しいぞ、無能。……退職金は出さない。『自己都合退職』の書類を置いておく。30過ぎてスキルなしのデブを、今まで雇ってやった温情に感謝するんだな」


デスクに戻ると、すでに私物は段ボール一箱にまとめられていた。 「お疲れさまー」と声をかける同僚は一人もいない。それどころか、隣の席の女子社員は、高橋が席を立った瞬間、露骨に消臭スプレーを空中に撒いた。


「……はは、なんだこれ」


会社を出ると、みぞれ混じりの雨が降っていた。 傘を持ってくるのを忘れた高橋は、段ボールを抱えたまま、冷たい雨に打たれて歩いた。 120kgの身体が、これほどまでに重く、惨めに感じたことはなかった。


駅へ向かう道すがら、スマホの画面に映る自分の顔を見る。 雨に濡れ、髪が張り付き、絶望に歪んだ不細工な男。


「……もう、全部、どうでもいいな」


アパートの、カビ臭いワンルーム。 濡れた服を脱ぐ気力もなく、高橋は床に倒れ込むようにして目を閉じた。 意識が遠のく中、脳内で電子的なノイズが走る。


【――対象者の「忍耐限界」を検知。精神的損害、肉体的搾取、および容姿による社会的制裁……全てを「負債」として計上します】 【総計:8,500万ポイント。……固有スキル『我慢の対価』を解禁。……異世界への転送を開始します】


「……あ、あ……」


喉の奥から漏れたのは、言葉にならない嗚咽だった。 次に目を開けたとき。 彼は、豪華な石造りの床の上に、ゴミのように転がされていた。


「何だ、この汚らわしい豚は」


目の前に立つ、宝石を纏った王女が、彼の顔を靴の先で踏みにじりながらそう言った。

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