Aetheriaの音色
Aetheriaの音色
第一章:白いマスクの少女
岐阜の古い町並みに、ミチルとサキという姉妹が暮らしていた。長良川のせせらぎが聞こえるその家で、姉のミチルは、不器用で内気。中学の時、クラスメイトの男子に言われた「お前、笑うと口元がちょっと…」という一言が忘れられず、自分の顔に自信がなく、いつも白いマスクで口元を隠していた。部屋の隅には、埃をかぶった古いアコーディオン。父親が趣味で集めていた古物市で、ミチルが初めてその温かい音色に心を奪われてから、もう何年も経っていた。その蛇腹が大きく膨らみ、空気を震わせて温かい音を出す瞬間、ミチルの心臓も一緒に鳴った。アコーディオンの匂いだけが、ミチルにとって安心できる場所だった。
一方、妹のサキは、特別な努力などしなくても人を惹きつける天性の明るさと歌声を持っていた。彼女が楽しそうに口ずさむと、周りの人々までが自然と笑顔になる。それはまるで、彼女の喜びが音に乗って伝染していく魔法のようだった。そんな妹の歌声は、ミチルにとって憧れであると同時に、深い劣等感の源でもあった。親はミチルの内気な性格を理解してあげたかったが、何を話しても反応が薄いため、つい明るく笑うサキを褒めることが多かった。悪気なく放たれる「サキは本当に笑い顔が可愛くて良いね」という何気ない言葉が、ミチルの胸に深く刺さる。
「明るく振る舞えば、私もサキみたいに愛されるのだろうか」。そんな自己否定の思いが、彼女をSNSの世界へと向かわせた。スマホの中に、魔法のようなアプリ「Aetheria」を見つけたのは、そんな時だった。「エーテリア、それはギリシャ語で『天空の澄んだ空気』という意味らしい。このアプリは、きっと私を、この埃っぽい現実から、澄んだ空気の世界へと連れて行ってくれる」。ミチルはそう心の中でつぶやいた。
第二章:魔法の鏡
フィルターをかけると、地味な顔が、まるでサキのように明るく輝く美人に変わる。試しに投稿した写真に「いいね!」が殺到した。カフェの窓辺で笑う写真、夕焼けを背景にした哀愁漂う横顔、どれもこれも本当の自分ではないのに、ミチルの顔は写真と同じように少しだけ美しくなったような気がした。
美貌を維持するには、毎日一定数の「いいね!」が必要だと知ったミチルは、次第にSNSの奴隷になっていく。埃をかぶったアコーディオンは忘れ去られ、鏡を見るたびに「こんな地味な顔は嫌だ」と、マスクで顔を隠すようになった。妹のサキは、そんな姉を心配した。「ねえ、最近アコーディオン弾いてないね。私、姉ちゃんの音楽好きなのに」。サキにとって、それは姉との大切な思い出だった。ミチルは苛立ちを隠せない。「練習しないとうまくならないんだよ」。かつて自分自身に言い聞かせていた言葉を、今は苛立ちとともにサキに投げつけていた。
「いいね」のプレッシャーから、ミチルはさらにエスカレートしていく。「身長-120」という非現実的な目標を掲げ、不健康なダイエットに走る。空腹感と体の冷たさに震えながら、危険な成分の入った「痩せる錠剤」の広告案件を受ける。「そんな不健康なことやめなさい」という親の忠告も、妹の涙も、彼女の耳には届かなかった。
第三章:消えた音色
しかし、そんなある日、妹のサキが落ち込んでいる姿を目にする。楽しみにしていた地域のイベントで、歌のオーディションに落ちてしまったのだ。サキは泣きながら言った。「私、姉ちゃんみたいに練習が続かない。やっぱり、姉ちゃんみたいに才能がないんだ…」。サキは、ミチルの地道な努力をずっと尊敬していたのだ。サキはいつも笑顔でいなければならないと思っていた。ミチルが笑ってくれない分、自分が笑って、この家を明るくしなければ、と無意識にプレッシャーを感じていた。
ミチルは、妹の言葉に衝撃を受けた。自分にはない天性の輝きを持つ妹が、自分の地道な努力を尊敬していたとは。そして、自分はそんな大切な努力を捨て、虚構の「いいね」に溺れていたのだと気づく。その頃、ミチルが推奨した錠剤で健康被害を訴えるフォロワーが続出し、炎上騒動が勃発。いいねは瞬く間にゼロになり、魔法が解けたミチルの顔は醜く歪み、無理なダイエットで壊れた体は入院を余儀なくされた。
最終章:再生のハーモニー
全てを失い、絶望するミチルのもとに、サキがそっとアコーディオンを置いていく。無機質な病室に、その温かい木目だけが際立っていた。「下手でもいい。練習しないとうまくならないんでしょ?」。ミチルは、震える指でアコーディオンを抱えた。うまく弾けない。だが、その音色は、SNSの「いいね」とは違う、温かくて確かな自分の音だった。下手でも、ひとつひとつの音が、あの頃の静かな町の風景や、父親が笑っていた記憶を呼び起こす。それは、フィルターで加工された世界には決してない、温かくて確かな記憶だった。
数日後、ミチルはアコーディオンを弾きながら、病室の鏡に映る自分を見つめた。かつてコンプレックスだった顔が、音楽への情熱で輝いている。その顔は、マスクで隠す必要のない、紛れもない彼女自身の顔だった。(本当は、笑い顔が一番可愛かったんだ…)。心の中でそっとつぶやいた。ミチルはサキに言った。「また、一緒に音楽をやろうか」。サキは驚きながらも、涙を浮かべて頷いた。姉は地道な努力でアコーディオンを、妹は天性の歌声で、偽りのないありのままの二人としてSNSに音楽を投稿し始めた。
投稿された動画に、以前のような爆発的な「いいね」はつかなかった。しかし、そこには「姉妹のハーモニーに癒されました」「下手でもいい、大切なのは音を出すことだと教えられました」といった、心からのコメントが寄せられていた。それは、ミチルが虚構の「いいね」の数に一喜一憂していた頃には決して得られなかった、温かくて真実の共感だった。
二人の音色は、長良川のせせらぎに乗り、岐阜の古い町並みに新しい命を吹き込んでいくようだった。ミチルのアコーディオンとサキの歌声が重なり合う瞬間、少しずれていても、不器用でも、そこにはたった一つのハーモニーが生まれた。そして、ミチルはマスクを外し、心の底から微笑んだ。その笑顔は、虚構ではなく、アコーディオンを弾く喜びとサキとの絆から生まれた、紛れもない本物の笑顔だった。
再生の物語は、いま始まったばかりだ。