氷の心と愛の魔法
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静かな森の中、月明かりが白く地面を照らしていた。
健司とルゼリアは、草の露を踏みしめながら向き合っていた。
夜の静けさの中で、風の音すら遠く感じる。
ルゼリアの瞳は、氷の結晶のように冷たく、それでいてどこか壊れそうな儚さを湛えている。
「あなた、人を愛で包み込む魔法が使えるそうね。」
そう言って、ルゼリアは腕を組んだまま、健司を射るような視線で見つめた。
「でも皮肉なものね。その魔法がどれだけ強力でも、あなた自身が愛されるわけじゃない。」
健司は苦笑した。
ルゼリアの言葉は冷たいが、それが彼女なりの“問いかけ”であることに、彼はもう気づき始めていた。
「その通りです。僕の魔法は、誰かを温かくすることはできても、自分の心を満たすことはできないんです。だからこそ、愛が欲しいと思ったんです。」
ルゼリアは小さく鼻で笑った。
「なら試してみる? 私にその魔法を使って、私の心を溶かしてみなさい。もしそれができたら……あなたに、少しだけ愛を返してあげる。」
健司は驚いたように目を見開いたが、すぐに真剣な眼差しでルゼリアを見返した。
「本気ですか? あなたのように深い傷を負った心を溶かすのは、簡単なことではありません。それに、僕の魔法が本当に通じるのかどうかも…」
ルゼリアは腕をほどき、健司に一歩近づいた。
彼女の髪が風に揺れ、銀色の月明かりに照らされる。
「怖気づいたの? それとも、自分の魔法が本物じゃないから、試すのが怖いのかしら?」
健司は目を伏せ、少しの沈黙の後、小さく息を吐いた。
「……分かりました。試してみます。でも、僕の魔法はただの力じゃありません。あなたに触れるには、僕自身がすべてをさらけ出す必要があるんです。それを理解したうえで、受け入れてくれますか?」
ルゼリアの瞳がわずかに揺らいだ。
「さらけ出す…?」
「僕もあなたと同じです。」健司の声は静かだったが、どこか切実だった。
「信じた人に裏切られ、自分の心を守るために閉ざしました。でも、そんな自分が嫌になったんです。他人を愛で包み込めるのなら、自分にもその温かさを感じたい……そう思ったんです。」
ルゼリアはじっと健司の顔を見つめていた。
その言葉には嘘がなかった。だからこそ、胸の奥でなにかが軋んだ。
「……私も、同じよ。」
その呟きは風に溶けそうなくらい小さなものだった。
けれど、確かに健司の耳に届いた。
「私も、かつて人を信じて、裏切られた。愛なんてものは、脆くて儚くて、信じた瞬間に足元をすくわれる。」
そう語るルゼリアの声は、普段の冷ややかさとは違っていた。
「私はね……もう二度と、心を凍らせたくなんてなかった。でも、凍らせるしかなかったのよ。そうしないと、自分を保てなかった。」
その告白は、どこか子供のようだった。
怖いと叫ぶ代わりに、冷たさで自分を守ってきた少女のように。
「……健司。あなたの魔法を受け入れることは、私にとってすごく怖いことなの。もし、また裏切られたら、私……もう、自分を戻せなくなるかもしれない。」
健司は、その言葉にゆっくりと頷いた。
「僕は裏切りません。どんなに時間がかかっても、ルゼリアの心を包みたい。あなたが自分で凍らせた心を、少しずつでも温めたいんです。」
ルゼリアは目を細めた。
その表情には、試すような鋭さと、どこか弱さが入り混じっていた。
「覚悟があるのね。いいわ。あなたの愛と、私の氷の心が、どちらに勝るか試してみましょう。」
「……ただし、一つだけ条件があるわ。」
「条件?」
「もしあなたの魔法が私に通じなかったら——あなたの心を永遠に凍らせる。私のように、愛を捨てた存在にしてあげる。」
ルゼリアの声には冷たさと同時に、哀しみが込められていた。
健司は静かに目を閉じ、そして決意を込めて目を開いた。
「それでも構いません。僕は自分の力を信じます。あなたを包み込むことで、ほんの少しでも温かさを取り戻せるなら……その代償は受け入れます。」
彼の言葉に、ルゼリアの瞳がわずかに揺れた。
何かが、ほんのわずかに崩れかけたように見えた。
「じゃあ、始めましょう。」
健司はゆっくりと手を差し出す。
「……心を預けてください。」
ルゼリアはその手を見つめた。
その手には、戦うための力ではなく、守るための温もりが宿っていた。
彼女の指先が、恐る恐るその手に触れる。
——その瞬間。
二人の間に、柔らかな光が広がった。
夜の冷たい空気が、ほんの少しだけ温もりを帯びた気がした。
それは、氷と愛の、最初の接触だった。
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