第五章「月光の幕間」
音が、消えていた。
雨は止み、風も眠り、舞台には月光だけが降りていた。
それはまるで、舞台自身が呼吸をやめ、ただの“空間”に戻ったようだった。
客席は静かだった。誰もいないはずのそこに、何かの“気配”がある。
それは記憶か、幻想か。あるいは——かつてそこに座っていた誰かの、名もない残響か。
仮面が、ぽつんと舞台の中央に置かれていた。
その表情は、泣いているようでもあり、笑っているようでもあった。
能面というものは、見る角度で感情が変わる。それは、人間の心と同じだった。
世阿弥は、舞台の端に立ち、ひとつ、深い呼吸をした。
目を閉じると、仮面の奥で誰かの気配が立ち上がる。
父か、自分か、それともただの想像か——それは分からない。
ただ、その“沈黙”だけが、確かなものとしてあった。
シェイクスピアは客席に腰を下ろし、うつむいていた。
手元の台詞帳は開かれていない。
ページをめくる音すら、この場には重すぎるように思えた。
彼はふと顔を上げ、天井を見つめた。
破れた天幕の隙間から、星のように小さな月が、差し込んでいた。
その光は、舞台上の仮面をほんの少し照らし、
隣に置かれた鏡のふちに、細い銀の輪郭を浮かび上がらせた。
オスカーは、鏡の前に膝をついていた。
彼は何も言わず、ただ、じっと——鏡の中を見ていた。
その目は、どこか遠くを見ているようだった。
だがそれは、鏡の“奥”ではなく、鏡の“手前”にいる自分自身へと、まっすぐに向けられていた。
誰も何も言わない。
言葉という“衣装”が、この場では重すぎた。
語られない思いが、舞台を満たしていた。
風が一度だけ、劇場を撫でた。
その風に揺れたのは、破れた緞帳と——シェイクスピアの台詞帳のページだった。
ぱらり。
その一枚がめくれ、裏返ったその文字は、誰の目にも留まらなかった。
そしてまた、沈黙が舞台を支配する。
月は静かに昇り、影を深くしていく。
これは“間”だ。
演技と演技のあいだ。
言葉と声のあいだ。
仮面と顔のあいだ。
その一瞬にこそ、最も深い“人間”が潜んでいるのかもしれない。
ただ、それはまだ誰にも、わからない。