第三章「仮面の裏に立つもの」
沈黙が、幕のように落ちた。
世阿弥は能面を抱えたまま、舞台の隅に佇んでいた。
シェイクスピアは舞台中央をゆっくりと歩き回り、オスカーは再び観客席に腰をかけていた。
それぞれが距離を取りつつ、しかし不思議な均衡で繋がれている。
まるで、一つの物語を支える三本の脚のように。
「君の“面”は、どうしてそこまで重いのだ?」
静寂を破ったのはシェイクスピアだった。
軽やかな声には皮肉の代わりに、どこか探るような気配があった。
世阿弥は驚いたように視線を向け、しばし言葉を探した。
「……これは、父の形見なのです」
短く、しかし丁寧な声で告げる。
「わたしがまだ、若かった頃。父は舞台で……“花”を咲かせる人でした。
あの人がつけると、この面はまるで、生き物のように……」
彼は一瞬、面を仰ぎ見る。その目は、遠い過去を映していた。
「……だから私は、“この面の中に、父がいる”と思っていました。いまでも……そう、信じているのかもしれません」
舞台が、しんと静まる。
シェイクスピアは腕を組み、真顔で答えた。
「それは、良い演劇の始まりだ。——死者の魂を面に宿すなんて、実に詩的だね。私も似たような話を書いたことがある」
その言葉に、オスカーがくすりと笑った。
「死者の魂より厄介なのは、生きている自分の“顔”さ。面の奥に誰かがいると思える君は、ある意味で幸せかもしれない」
彼はポケットから小さな香水瓶を取り出し、空中に一滴だけ振った。
甘く乾いた香りが、劇場の空気にほんのりと混ざる。
「私は……自分の顔に絶望していたよ」
シェイクスピアが眉を上げる。
「珍しいな。君ほど自信家が」
オスカーはにやりと笑ったが、どこか寂しげだった。
「美しくあろうとした。皮肉と美と、仮面で生きた。でも、それがどれだけ精緻でも——人間の悪意はそれを引き裂くには十分だった。
私は舞台を降ろされた。法廷という、滑稽な劇場でね」
短い沈黙が流れた。
「……君の裁判か」
シェイクスピアがぽつりとつぶやいた。
「面白い構図だった。演者が“罪”という仮面をつけさせられた舞台」
「そのとおりさ。滑稽で、そして……少しだけ、泣ける劇だった」
オスカーはゆっくりと立ち上がり、鏡のそばへ歩く。
そして、その前で立ち止まり、己の姿をまじまじと見つめた。
「……だが、真実を語るには、どうしても仮面が要る。私はそう信じている。仮面は、恥ではない。弱さの防壁であり、そして美の盾だ」
世阿弥が、それに静かに答えた。
「……“面”は、わたしにとっても……恐れの象徴です。舞台に立つとき、わたしは“わたし”であってはならない。
……でも、面をつければ……“誰か”として、そこにいられる」
「つまり、君は自分を守るために“誰か”になる」
シェイクスピアが言った。
「私の登場人物たちも、そうだった。恋人、道化、王、狂人——皆、別人を演じることで“自分”を保っていた」
彼は台詞帳を広げ、何かを探すように視線を落とす。
「……だが、私は未だに思う。仮面の裏にいるもの——それは、本当に“人間”なのか?」
オスカーが静かに応じた。
「その問いは、君のものでもある。君の観客に、投げかけ続けた問いだろう?」
舞台の上、仮面、台詞帳、鏡——それぞれの“顔”が、沈黙のなかで物言わぬ問いを投げかけていた。
それは、役者のための問いではなく——
この舞台に“立つ者”すべてに向けられた問いだった。