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仮面に問う  作者:
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第一章「幕が上がらぬ舞台」

劇場は、既に死んでいた。


 緞帳は破れ、天井の梁は剥き出し、舞台は埃に覆われている。

 観客席に座る者はなく、ただ雨が、屋根の裂け目から舞台に滴り落ちていた。

 そこに響くのは、ぽつ、ぽつ、という静かな水音だけだった。


 そして、その沈黙の舞台に、ひとりの男が足を踏み入れた。


 


 ゆっくりと、迷うように、恐れるように。

 墨染の衣をまとい、風に揺れる袖を手で押さえながら、男は舞台袖から現れる。

 その腕に抱かれているのは、古びた仮面——いや、“面”と呼ぶべきものだった。

 能の面。木彫の薄さに、長い時の手が触れたような、微かな艶が残る。


 


 世阿弥。


 その名を知る者は、この劇場にはいない。

 だが彼は、確かにそこに立っていた。誰にも見られぬ舞台の上に。


 


 「……ここは……」


 声は、誰にも届かない。


 ただ、劇場の奥へと吸い込まれていくだけ。


 


 「……舞台……ですね。ええ……舞台です」


 そう言いながら、彼はそっと面を抱き締めるようにした。

 雨に濡れぬよう、まるで壊れやすい命でも抱いているかのように。


 


 「……父上」


 誰に向けるでもない、小さな声が漏れる。


 


 この面は、かつて父が使ったものだった。

 舞台の上で、観客を魅了し、“花”を咲かせていた父の象徴。

 その死のあと、面だけが彼の手に遺された。


 


 はじめてこの面をつけて舞った日、足は震え、声は裏返った。

 だが、面を通して父の背中が見えた気がした。

 自分ではない“誰か”のような存在が、体を動かしていた。


 


 それ以来、この面は彼にとっての“橋”だった。

 父への橋、観客への橋、そして——自分という存在を超えるための橋。


 


 「でも、なぜ……怖いのでしょう」


 彼は静かに膝をつき、面と目を合わせた。

 深い目の穴が、何かを問いかけてくるように見える。


 


 「……この面をつけると、わたしは……わたしではなくなる。

 ……わたしは、わたしの声で、父の役を語る。

 ……けれど、それでも、“演じる”ことが、真に近づく道なのだと、わたしは信じている」


 


 そのとき——


 「まるで、告白のようだね。幽霊に語るには、美しすぎる」


 


 背後から、声がした。


 世阿弥がはっと顔を上げて振り向くと、そこにはひとりの男が立っていた。


 古びた羽根帽子に、煤けたマント。

 どこか芝居がかった立ち姿で、男は舞台袖に立ち、こちらを見ている。


 


 「シェイクスピア。君の“芝居”、なかなかの入りだ」


 


 世阿弥は言葉を失い、その場に立ち尽くす。

 シェイクスピアと名乗る男は、緞帳の影を抜けて舞台へと一歩踏み出す。


 


 「人の世は舞台だ。ならば、君も私も、すでに幕が開いている」


 彼の足元には、かすかに雨のしずくが落ちる。

 それすらも、効果音のように感じられた。


 


 「さあ、始めようじゃないか。観客はいないが、我々がいれば芝居は成立する。

 仮面を持つ君と、台詞を持つ私とで——」


 シェイクスピアは、舞台の空気を変えるように、にやりと笑った。


 


 そしてまた、月光が劇場に差し込む。

 まるで、いまここに、ひとつの芝居が始まったかのように——


 「……演じている、のですか?」


 沈黙を破ったのは世阿弥だった。慎重に言葉を選ぶように問いかける。


 「あなたは……わたしの言葉を“演技”と……そうお考えですか?」


 シェイクスピアは肩をすくめ、客席を見回しながら答えた。


 「演技にしては、あまりに真剣で——それゆえに美しい。だが、すべては芝居にすぎない。たとえ本人が真実だと信じていても、舞台に立った時点で、それは“役”になる」


 世阿弥は困惑の色を浮かべ、抱えた仮面にそっと視線を落とす。


 「……“花”は、役の向こうに咲くと、わたしは信じています。面が語り、声が響くとき……そこに“真”が宿ると……」


 「“真”とは何だ?」

 シェイクスピアが、にやりとした笑みを崩さずに言った。

 「わたしは何度も台詞を書き、人を笑わせ、泣かせてきたが、そのどれもが“嘘”だった。しかし人々は真剣に涙を流し、祈るように舞台を見つめた」


 彼は天井から落ちた埃を払いながら、続ける。


 「だから私は思う。——“真実”と“演技”は、もしかすると、同じ顔をしているのかもしれないとね」


 静かな時間が流れる。


 そのときだった。


 「……その問い、実に結構だ。少し寒いが、芝居にはちょうどいい空気だな」


 二人が一斉に振り向く。


 客席の中段、破れた赤いシートにひとりの男が座っていた。長いコートを乱さぬよう片膝を組み、白い手袋をした指先で、傘の柄を軽く撫でている。彼の視線は穏やかで、どこか冷たくもあった。


 「仮面を信じる者と、芝居を知り尽くした者。君たちは、いい役者だ」


 声は男らしく低く、しかし言葉の隅に棘と香りが混ざっていた。


 世阿弥が思わず一歩下がる。シェイクスピアは眉を上げたまま、言葉を発した。


 「……君は?」


 男は立ち上がり、ゆっくりと舞台に向かって歩み出した。靴音が古びた床に響く。


 「名を問うなら、答えよう。——オスカー・ワイルド。皮肉と詩と、美の残骸を愛する亡霊さ」


 彼は舞台に上がると、世阿弥とシェイクスピアを見渡しながら言った。


 「私は観ていた。君たちの芝居を、役の入り方を。そして、君たちが何に怯え、何を信じているのかもね」


 オスカーは懐からひとつの小さな鏡を取り出し、それを舞台の中央に置いた。


 「ここから先、君たちが語ることはすべて、鏡に映る。仮面の下にある“顔”が、本当に人間のものであるかどうか——それを、見てみようじゃないか」


 


 舞台の中央、能面、台詞帳、鏡が三つ並ぶ。


 その静けさに、再び雨音が重なってくる。


 廃劇場という“誰もいない観客席”に向かって、物語は幕を上げる。



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