出発の日、図書館の夢
旅立つ日はいつでも良かった。曇り空だろうが土砂降りだろうがやるべきことは変わらない。
むしろ下手にゲン担ぎなどしては、ずっとそれに縛られることになってしまう気がした。たとえどんなコンディションであろうとその時になれば歩き出せるような、そういう訓練が僕には必要だった。
ともかくも出発前日の晩、僕は少ない荷物を整えていつものように床に就いた。窓の外では静かに雪が降り始めていた。
夢の中で僕は図書館にいた。
僕は白いカウンターの前に立って司書の女性と向き合っている。カウンターには題名すら読めないボロボロの本が置かれていた。その本はおそらくは僕が求めたものだったはずだけれど、なぜそんな本を自分が求めていたのかは分からなかった。
「この本は貸し出しできません」
メガネをかけた中年の司書(少し疲れてはいるけれど真面目で親切な人だ。子供の頃に一度だけ会った姉の友達に少し似ていた)がそう言った。
「館外には持ち出せませんが、ここでお読みいただくことはできますよ」
もちろん知っていましたよ、とでもいうふうに僕は頷いた。
僕はボロボロの本を持って適当な席に着く。この本には地球が誕生してから今日に至るまでの歴史が全て書いてある。この本を外に持っていくことはできないから、せめて出来る限りその内容を覚えておこうと思う。
僕は図書館の片隅に座って四十六億年の物語を読む。読むのに疲れると図書館の高い天井を何とはなしに見上げる。姿の見えない他の利用者が思い思いに本のページをめくる音や、メガネの司書がパソコンのキーボードを叩く音が微かに聞こえる。目を閉じると天井の向こうで図書館の屋根に雪が降り積もっていく音さえ聞こえるような気がする。
僕は残りのページをパラパラとめくる。地球上に人間が登場するまでしばらくかかる。どれだけページをめくっても最後のページは存在しない。時代が限りなく今に近づいたところで、これ以上ページを捲ると僕は自分が目を覚ますことになるだろうということに気が付く。
窓の外の雪を見ながら僕はカウンターまで歩いて行き、本を返した。手のひらには表紙のザラザラとした手触りと古い毛布のような香りが残っている。あの本は今後何十年、いや何百年も誰の手にとられることもなく図書館の奥で眠りにつくかも知れない。それでも永遠にひとりぼっちというわけでもないはずだ。現に今日、僕はあの本をほんの少しとはいえ手にとって読んだのだ。そのことに僕は満足し、それほど広くないこの図書館をもう少し歩いて回ることにした。
書架の間は雪原みたいに静かだ。実際この図書館は雪原の真ん中に建っている。ここには本を読みたい人も図書館の中をただ歩き回りたいだけの人も簡単に辿り着ける。建物に入る前に靴にくっついた雪を入念に落とさなければならないが。
他の利用者の姿は見えない。けれども気配がある。誰かがページをめくる音や書架の間を歩き回る音がする。それを不気味には思わない。彼らは彼らで自分の図書館を自分の利用したいように利用しているのだ。彼らが僕の邪魔をすることはないし、僕も彼らの邪魔をするつもりは全くない。
吹き抜けの階段を登って二階に上がると、階下に並ぶ無人の机の上にまばらに本が開かれているのが見えた。半端に引かれている椅子もある。フロアの片隅のカウンターの中では司書がパソコンの画面を見つめている。
二階に来ると空調の低い唸りが少しだけ大きくなる。専門書の棚のあたりを歩いていると、学生服を着た高校生くらいの男の子が写真集のようなものをめくっているのを見つけた。懐かしい顔だった。僕が近づいていくと向こうが先にこちらに声をかけた。
「よう。この棚の本を読むのはお前にはまだ難しいと思うよ」
「久しぶり。そうかな。僕も少しは大人になったんだけど」
「まだだめだ。もっとたくさん難しい本を読んで訓練を積んでからじゃないと」
「厳しいね」
「ああ。でもお前ならそのうちできるよ。何年かかるかは知らないけど」
そう言って彼は悪戯っぽく笑った。記憶に残る彼の笑顔よりもずっとあどけない笑顔だった。
最後に彼に会ったのはもう随分前だ。僕はまだ小学生だった。近所に住む彼の母と僕の母は仲が良くて、それで僕らも時々一緒に遊んだ。正確には年上の彼が幼い僕の面倒を見ていた。僕が中学生になる前にどこかに引っ越して、その先は知らない。
彼は手にしていた本を戻して他の棚の方へ歩いて行った。僕も彼のいた場所を通り過ぎた。
もう少し言葉を交わしても良かったかもしれないけれど、きっとあの場で浮かんだ言葉だけが僕らにとって本当に必要な言葉だったのだ。そう思う事にした。
パーテーションで仕切られた作業用スペースの方に歩いていく。カタカタとかすかな音のする方を見ると、角の机で先生がノートパソコンに向かって何か書き物をしていた。
僕は少し迷った。声をかけるのが礼儀だろうか。しかし邪魔をするのも悪いかと思って通り過ぎようとしたら、先生が頭を上げてこちらを見た。仕方なく僕は会釈してそちらに少しだけ近づいた。
「何か探し物かな?」
先生はいつもの仏頂面だった。この表情が特に怒っているわけでも不機嫌なわけでもなく、先生の生真面目さの表れである事に気が付くのに、あの頃の僕は随分時間を要したものだった。
「いえ、少しぶらぶらしていただけです」
「そうか。順調なのかい?」
「ええと、はい、まあ、なんとか」
「そうか。実際がどうであれ、そう言えるのであれば良いことだ」
「先生は相変わらずお忙しいのですか?」
「ああ、忙しいね。でもそう言えるのも良いことだ」
先生はそう言って自分の作業に戻った。僕は可能な限りそっとそこを去り、作業用スペースを抜けてふっと息をついた。
僕は先生のことを嫌いではないし一応それなりに尊敬もしていたのだけれど、いざ本人と話すとなるといつも緊張した。なにせ先生はひとつの学問をきちんとおさめた研究者で、対する僕の持ち物は書きかけの小説となけなしの物語の断片だけ。そんな中途半端極まる僕という人間を先生がどう評価しているのか、僕には想像もできなかった。つまりは僕は先生の前に立つと自分と自分の持ち物が随分子供っぽく頼りないものであることについて思わずにはいられなかったのだ。
先生がそれについて指摘したことなんて一度もなかったのだけれど。
窓際の席に歩いて行った時、それを見つけた。僕は周囲を見回して知っている顔がいないかを確認しながらゆっくりと席に近づいた。
椅子の背もたれにくたびれた黒いコートが引っ掛けられていた。机の上に置かれた本は、幼い頃の記憶と同じ部分が茶色く染みになってよれている。これから読むのだろうか、それとももう読み終わったのだろうか。本の横には色褪せた押し花の栞が添えられている。
母の席なのだと僕には分かった。
本人は離席中のようだった。母は特に読書家というわけではなかったけれど、いやむしろ読書家ではなかったからこそ、母が本を読んでいる姿を幼い僕は不思議な関心を持って観察していた。
本を読んでいる人間は(当たり前だけれど)ずっと静かな表情で文章に向かっている。動きも少ないし喋ることもない。しかし目の前にはなにか心を惹かれるものが存在していて、いわば心だけが違う世界に集中しているのだ。いつも忙しなく家事をこなしているか疲れて眠っているかしている母が、本を読むときはそんなふうに静かに一人の時間を過ごしていることに、幼い僕は安堵を感じていた気がする。
汚れた本の表紙を撫でた。今の僕ならこの本を苦もなく読めるだろう。でもそれと当時の母の気持ちを知ることができるかは別の話だ。日々の忙しさの中で(それは決して不幸な忙しさではなかったとしても)一冊の本と向き合う時間を見つけるような喜びを僕はまだ知らない。現実に戻っても僕はやはりまだ子供で、生きる喜びも苦しみも経験しきれていないのだ。だから僕にはまだ読めない本がたくさんある。
僕は席をそっと離れた。
新聞や雑誌のバックナンバーが置かれているコーナーをぶらぶらと見て回ってから、僕は階段を降りた。
一階に戻ると、さっきまで心地よく僕を包んでいたはずの静けさがどこかよそよそしくなっている気がした。相変わらず静かではあるけれど、僕はそれに対して二階に上がる前ほど親しさを覚えず、それどころか上滑りしているような印象すら抱いた。少し遠くなったはずの空調の音も耳障りに聞こえ始めた。
これはもちろん僕の気分の変化に起因している。この図書館に非は無い。久しぶりの顔に出会ったことに加えて、僕自身そろそろこの図書館を出なくてはならないということに気がつき始めているのだろう。
窓の外の雪はすでに止んでいて、鈍い日差しがカーテンの隙間から溢れていた。荷物も上着も無い僕は真っ直ぐに出口の方に歩いて行った。
最後に一度だけと思い、カウンターに寄った。司書は僕が近づくとパソコンから目を上げた。
「何か?」
「もう行きます」
「そうですか」
司書は小さく息をついて眼鏡をとった。僕と司書はどれくらい仲が良かったか、どうして仲良くなったのかを思い出そうとしたが、具体的な思い出は何も浮かばなかった。
「ここの仕事は大変?」
僕の質問に、司書はちらとパソコンの画面を見やった。
「分からない。他で働いたことがないから」
「そう」
「でも、少なくとも嫌じゃない。単調な仕事だけど、周りの人が言うほど退屈な仕事でもないし、私にはたぶん合ってると思う」
「なら良いですね」
彼女は頷いた。そして上着も荷物もない僕を上から下まで見た。
「これからどこに行くの?」
「遠くに。と言っても新幹線と地下鉄とバスがあれば行ける場所だけど」
「でも遠くなんでしょ」
「はい。遠くです」
「気をつけて」
何に、と聞いてみようかと思ったけれどやめた。僕は確かに気をつけるべきだ。これから降りかかるいろいろな何かや、もしくはあらゆる何かに対して。
「ねえ」
「なんですか」
「本当に行くの?」
僕は少し驚いて司書の顔を見た。眼鏡を外した司書の顔は心なしか幼く見えた。顔には化粧っ気がなく、髪は無造作に束ねられ、身長は僕の肩くらいまでしかなかった(今は座っているけれど)。相変わらず少し疲れているようには見えたけれど、やつれているわけではなかった。
僕は五年後や十年後もここに座ってパソコンを睨んでいる彼女を想像した。きっと彼女の日々の仕事はとても穏やかで静かなものなのだろう。わずかに羨ましさも感じたけれど、このカウンターに座っているべきは僕ではなく彼女なのは明白だ。
僕は図書館をふり仰いだ。ここにはいつでも来られる。新幹線も地下鉄もバスもなくても。ただし、来ようと思わなければ来ることはできない。遠くで微かに空調の低い音が響く。読まなければならない本がまだまだ眠っている気がした。あるいは僕は席にマフラーを忘れてきているかもしれない。それか借りっぱなしにして返していない本があるかも。あのときあの本を読んでおけば良かったと後悔することがあるかもしれない。これから先、もう近所に住んでいた彼や先生とは会う機会がないかもしれない。最後に挨拶をした方が良いのかもしれない。
それでも僕は司書の方に向き直って頷いた。
「はい。そろそろ行かないと」
「そう。気をつけて」
「はい」
自動車が濡れた路面を走り抜ける音で目が覚めた。
出発の朝は曇り空だった。昨夜からの雪はやんでいたけれど、薄く足跡が残る程度には積もっていた。僕は簡単に身支度を整えて、朝食を食べずに家を出た。両親は駅まで送ると言ったけれど僕は笑って断った。暗く寒い朝だった。
駅に着いて、新幹線の切符を買う。サンドイッチと缶コーヒーを買ってホームのベンチに座る。目を閉じれば見えない誰かがページをめくる音が聞こえるかと思ったけれど、代わりに聞こえてきたのはホームに車両が入ってくる音だった。
窓際の席に座った。時間が早いせいか乗客はまばらだ。新聞を広げる音、荷物を網棚に上げる音、シートを倒す音、内容の聞き取れない話し声。暖房の低い微かな唸り。
缶コーヒーを開ける。ゆっくりとサンドイッチを食べるつもりだったけれど、どうやら自分で思っている以上に空腹だったようで、あっという間に平らげてしまった。
文庫本を開く。夢のなかから持ち帰って手のひらに残っていた手触りは新品の本のツルツルとした感触に消されていく。埃っぽい香りの記憶は缶コーヒーの風味に上書きされていく。それで良いのだという思いはあったけれど、窓の外で降り始めた雪に僕はあの暖かな書架の景色を幻視する。
もうしばらくあの図書館に行くことはないだろう。これからの僕はやりたいこともやらなければならないことも山積みだ。そう言えるのもきっと良いことだ。
流れていく景色を目の端に感じながら、図書館以外で本を読む利点はコーヒーを飲めることかもしれない、と考えたりした。
お読みいただきありがとうございました。
作者の通っていた大学にも図書館があって、在学中はそこに入り浸っていました。
季節を問わず図書館には行っていたはずなのですが、その様子を思い出そうとすると何故かいつも雪の降る寒い日の風景ばかりが浮かんできます。
窓際の机でレポートを書きながらしんしんと降り積る雪をぼんやり眺めるあの時間の雰囲気を、物語の中でも再現できていれば幸いです。
今回は夢の中ということでちょっと曖昧で抽象的な物語になりましたが、他の作品も読んでいただけると嬉しいです。
ありがとうございました。