彼女がほしい!
「ねぇ、ちゃんとやってよ」
彼女は肘をついて腹立たしげに言った。
俺は無気力に崩壊したジェンガを眺める。これで何回目だろうか?なんだか彼女と遊んでいるというより、姪っ子の子守をしている気分だ。
「ねぇ、次トランプね」
そう言って彼女は、戸棚の方へ駆けていった。
俺の彼女はデジタルで遊ばない。アナクロ趣味があるわけでもなさそうなのだが、なぜか家で遊ぶとなれば、決まってアナログゲームだ。俺も最初のうちは楽しんでプレイできたのだが、次第に飽きが増してきて、退屈になった。俺が映画鑑賞やテレビゲームなどを誘っても、「それつまんない」の一点張りで、自らの楽しいを譲らない。俺も楽しそうにして遊ぶ彼女を前に、それ以上は追求できないでいた。
「何する?うちの気分的にはスピードしたいんだけど」
もともとこんなだったのだろうか?
「えぇ、ババ抜きは二人でやるもんじゃないよ。スピードしよ、スピード」
彼女は意気揚々とトランプの色分けをしていく。分けながら小刻みに全身を上下させる姿は、まるで子供だ。俺は人知れず小さく嘆息した。
俺たちが知り合ったのは、大学の合唱サークルで、彼女、鶴見さんは一つ上の先輩だった。初めに好意を抱いたのは俺の方だ、違いない。なんせあっという間だった。綺麗なソプラノを奏でる彼女に、まるでその旋律で絡めとられるように魅了されていった。聞けば彼女が入部したのも、俺と同時期だったらしい。俺は、入部して一週間足らずで、即座に愛を打ち明けた。思い返しても、あのときの俺は頭がやられていたように思う。しかし、そんな俺の無鉄砲な告白を彼女は笑顔で了承してくれた。跳ね上がるほどに嬉しかったが、無鉄砲に思える打ち返すような了承には、若干の違和感も残った。
「じゃあ、うち赤ね。三回勝負。負けたら何か奢りね」
付き合って、はや半年が過ぎる。もちろん彼女は外の世界を嫌っているというわけでもない。サークルに入っていることもそうだし、外では普通のデートを重ねてきた。ただお家デートのときにのみ異常なこだわりを見せるのだった。
「はい、私の勝ち。えーっとねぇ、じゃあサイゼ行こう!」
外出の提案に、俺は開放感を覚え、揚々と二つ返事を出した。
イカ墨パスタ好きなんだよねぇ、と後ろ手を組み、前を行く彼女はやっぱり可愛い。ポニーテールが左右にぴょこぴょこと揺れる様を見ていると、多少のこだわりぐらいどうでもいいかと思えてくる。彼女の粗相なんて、大体が「ご愛嬌」でまかり通るのだ。
「2名でお願いしまーす」
店員への対応も全て彼女が率先してやる。後ろをついていくだけの俺は、少し情けなく、姉に連れ出された弟のようだ。
「えぇ、何も食べないの?駄目だよ、なんだか私だけ食べて悪い気がしてくるじゃん。そういうところも気遣いのうちだよ?勉強勉強」
彼女はじっと目を見つめて、説教をしてくる。
人のこだわりを追求するのも、そのうちに入るのだろうか?最近はこのことばかりが頭について回り、せっかくの円満ライフを楽しめないでいる。
「この癖になる味がたまらんのだよねぇ。わかるかね、この大人嗜好が」
届いたイカ墨パスタを上機嫌に啜り始める彼女は可愛いが、それ以上にイカ墨パスタの黒さが、俺の気持ちを囃し立てた。そして聞く時の文章はずっと前から決まっている。
俺は脈絡ないことを承知で、彼女に問いた。もう吐いた言葉は、戻ってくることはない。私は意を決したまなざしを彼女に向ける。
「ん?ふふふ」
彼女は丸い目をこちらへ向けると、口に運びかけていたパスタを胸元まで下ろして、脱力するように切ない笑みを浮かべた。食事中に聞くもんじゃなかったかと少し悪い気がしてきたが、後戻りはできまいと、直ぐに思考を切り替える。聞くだけ聞いてそれから謝ろう。彼女の心境はまだ読めない。
数秒間の沈黙の後、彼女は再びフォークを持ち上げ、食事を再開した。俺も何も言わない。一心不乱に食事にありつく彼女は、思考を整理しているようでもあり、ただ無我夢中で腹を満たしているようでもあった。みぞおち辺りに気持ち悪さを感じる。しかし、同時にこれを経ることで初めて生まれる絆もあるはずだと、若干の期待感も募らせていた。
「ふぅ、ごちそうさま」
満ち足りた表情のまま、布巾で口元を拭う彼女。結局何も言ってくれないのではないかという不安が微かに脳裏によぎる。
「あははっ、あははは!」
するとそんな俺の心境を感じ取ったのか、突然彼女は耐えきれないといったふうに笑い始めた。
そんな目の前で笑う彼女に、俺は少し苛立ちを覚えた。優雅だと思っていた彼女の笑い声も、今はなんだか下品に感じる。何が可笑しい。
「あ、少し怒ってるでしょ?」
ごめんて、とあしらうように宥める彼女。
「でも、そこで衝動に任せて怒号を吐かないところ、好きだったよ?」
からかわれているようにしか思えないし、そんなことが聞きたいのでもない。
「からかってないよ、ホントのこと」
でもね、というと彼女は続けてこう言った。
「別れよう」
蝉時雨のように店内に響き渡っていた金属音が、引く波のように俺の耳から遠のいた。
「私、付き合う前に言ったよね?○○○○」
それを君は破ったの、と彼女はにこやかに眦を下げて言う。好きだった白い肌も、今は色の抜けたような幽霊めいたものに思える。
彼女は嫌に目立つ口元のイカ墨をナプキンでそっと拭うと、「ご馳走様、本当にありがとうね」と言って、静かに席を立った。
あれから一週間、俺はサークルの同期から告白をされ、付き合うことになった。乗り換えるように、すぐさま彼女ができたことを、別に俺は酷薄だとは感じない。恨みからではない。調子のいいことだと思うかもしれないが、何か背中を押されているような気がしたのだ。そしてまた、日に日に遠くなっていく彼女との思い出は、まるで夢のように次々と欠落していった。
あれから彼女の姿は見ていないし、所在をだれも知らない。