story:23
路面電車の駅の屋根から覗く夕焼け空は、いつにも増して瑞々しく映える。梅雨の気配がありありと肌で感じられつつある6月中旬の金曜日。凜と義朗は放課後に実施された文化祭の準備とその後の部活動を経て、上り方向の電車が来るのを待っていた。週末の学校終わりということもあってフリーダムな心持ちだが、寄り道はせずに真っ直ぐ帰宅するつもりでいる。
文化祭当日に向けて、今日取り組んだ準備といえば教室内の装飾や看板の作成などのものか。出しものであるコーヒーの調達については、以前義朗が言っていたように日が近くなってからする予定だ。しかし、ボトルコーヒーをいくつか箱買いし学校まで運び込むとなれば、生徒たちの移動の手間と労力が必要以上に掛かるため困難を極める。よって、提供する飲食類は2年2組の担任が車で運搬するという話で落ち着いた。
日にちが迫っていることに伴って、クラス内での準備は着々と進んでいるので進捗状況はとても良い。作業に取り組んでいる生徒たちも精神的に余裕を持って動ける様子なため、ほとんどストレスは感じてはいないだろう。あとは文化祭実行委員と出しものの提案をした義朗及び凜が、各所の調整や諸々の最終確認を行って当日を待つのみだ。
ただ、当の義朗は自身の本来の技術を発揮出来ずに歯痒さを覚えていた。
「うおおぅ、なんというか……、わしでも車で運ぶぐらいは出来るっちゅうんに、そこはぶち歯痒ぇのぅ……」
実際に自分は、車の運転免許や自家用車を持っている。しかし、それらは全て黄泉からの意思によって一時的に無効化されているのだ。わざわざ担任を頼らずとも、箱買いのボトルコーヒーぐらいは学校まで運び込めるはずである。一応の一生徒でありながら、どうにかやるはずの仕事はやりたかった。
自らの技術に制限が掛かっていることを嘆く祖父に対し、凜は口癖を交えながらフォローを入れる。
「細かいことは気にしないの! ないものはないでしょうがないじゃん! ここは先生に任せてみよーよ!」
「うおお、そうじゃの。しょうがないもんがある以上はそれしかないけぇの」
そのまま、凜は後押しするようにはつらつとした調子で言葉を続けた。
「うんうん! それに、じいちゃんが色々と動いてくれてるおかげで助かってることも多いし! 美遥も夏宮が居てくれてありがたいって言ってたよ!」
「ほうね、そりゃあ良かったじゃなぁか」
「ええー? 他人事ぉ? 自分のことを言われてるんだよ?」
内心は頼りにされて嬉しい限りだが、義朗は頬を緩めるだけで謙遜した態度を取る。いくつになっても、自分の存在が認められれば自己肯定感が上がるものだ。胸中に心地の良い温度が灯ったような感情を抱きながら、義朗は控えめに笑って答える。
「うおお、分かっとるわいね」
褒められて上機嫌になっても、調子に乗らないし浮かれない。謙虚さを忘れて高慢になったとしても、何も良いことはないと義朗は分かっている。それどころかそんなマイナスな感情を持ってしまえば、しだいに周囲の人間は離れていくであろう。
ましてや、反面教師の面も兼ねて義朗は謙虚さを貫くと決めている。何故ならば義朗にとって、傲慢な人間は大嫌いだからだ。ついでにいえば、堅苦しかったり情に欠ける人種も苦手だったりする。
凛々しい横顔に映える澄んだ瞳から伸びる視線を宙に投げて、心中の波を一定に戻す義朗。空気中に漂う水分と土やアスファルトの香りが入り混じった匂いが鼻腔を抜けると、不思議と身体に力が入った。気候によって与えられた自然の産物は、人々に万能感を駆り立てさせる作用でもあるのだろうか。今の自分なら、何事にも一心不乱に集中して取り組むことが出来る気がする。
そんなありとあらゆる意識が時間の経過に伴って上昇している気がする中で、これまでに感じたことのないような風が流れ込んでいるのを、義朗は確かに察していた。記憶の破片まで続いている黄金色の軌道にも似た、この世のものとは思えない何かだ。
「うおおっ……!」
「ん? どしたの、じいちゃん」
突然隣で頭を抱える義朗に、凜はすかさず反応を示した。彼は先刻とは打って変わって怪訝な表情で何処か遠くを見詰めており、額に汗を滲ませて呼吸を止めている。そして、自らの内に飛び込む情景が晴れると、義朗は強い使命感を覚えさせる口調で宣言した。
「……凜、今から記憶の破片を取りに行くで」
とても急過ぎる成り行きだ。当然のことながら、凜はたじたじ気味に訊き返す。
「えっ? 今から?」
「今からじゃ。わしについてきてくれぇの?」
「ううーん、いい、よ?」
今日に至っては別に断る理由も無いため、表面上だけ曖昧な言い方で応じる凜。すると、そのタイミングを見計らっていたかのように路面電車が入ってきた。例により、義朗と凜は車両に乗り込んで非接触型の電子カードを入り口付近の機器に当てて奥へと進む。
果たして、一体自分たちは何処へ向かうのだろうか。もしかすると帰りが遅くなることを前提に市外へ出る可能性もある。先の読めなさからくる一抹の不安に駆られながらも、凜は車窓に流れる見慣れた景色を立って眺める。
「じいちゃん、今日は何処行くん?」
「さぁの、わしにも分からん。ほいじゃけどそげに遠くはなかろうて」
単に無責任に言っているのか、はたまた言葉にしようもない感覚的な確証を持って言っているのか。それこそ、その答えは黄泉の意思に基づくものだったりするのであろう。しかしながら、意外なことに義朗はすぐ近くの駅で下車を促した。
「凜、ここで降りるで」
路面電車から降りたのは、西部のショッピングモールの最寄り駅だ。とても既視感のあるシチュエーションである。一番最初に黄泉への鍵を見付けたのはこの近辺だったではないか。運賃の精算をして車両から離れる凜は、小首を傾げながら義朗に問い掛けた。
「またここぉ?」
「ここじゃなぁよ。乗り換えるんで」
「は? 乗り換える?」
乗り換えるとは、目的地はここではないらしい。義朗の後を追いつつ駅の構内や屋根付きの歩道橋を行くと、在来線の券売機の前に来た。音声機器から流れる案内を背景に、義朗は路線図を見上げる。
「うおお、あの場所は確か、あの駅が近ぁの」
祖父は何処の駅のことを言っているのであろうか。基本的に行動範囲が県内の西側である凜にとっては、それ以外の土地が未知の区域だ。もはや後の動きについては、ほとんど義朗に任せるしかないだろう。行き先に焦点を当てると、義朗は孫に振り返ってから券売機のタッチパネルを操作した。
「切符代はわしが出すけぇの、ちと待っとってくれぇや」
「あ、うん。ありがと」
二人分の切符を購入すると、義朗と凜は改札を通り抜けて在来線の駅のホームに降り立つ。路面電車よりも速いスピードで乗客を運ぶ車両はすぐに来た。近くの高校に通う学生たちや西部のショッピングモールで買い物を済ませた社会人などに紛れ、義朗たちも在来線に乗車する。
定刻通りに、電車は動き出す。速度がありながらも揺れは小刻みで、車窓に流れる景色は映画のフィルムのような速さで移り変わる。壁にもたれ掛かって体勢を保つ凜は、車両の外にも目を配りつつ、天井から垂れ下がる旅行関連の広告やドアの上に掲示されている路線図を漠然と眺めていた。
そうこうしているうちに、在来線は園庭を彷彿とさせる駅で停車する。電車の出入り口が開いたところで、それまで自分から喋らなかった義朗が満を持して口を開いた。
「凜、ここでまた乗り換えじゃ」
「え? またぁ?」
「うおお、そうせんと行けれんとこなんよ」
言いながら再び降りると、後方に見える乗り場に目を向けて義朗は孫を誘導する。向こうへ行くためには、地下道を経由していかなければならないようだ。帰宅ラッシュなど、まばらに広がる人混みに合わせて2人は等間隔にポスターが貼られている通路を歩いた。
地下を通って階段を上り、別のホームに出ると、しばらく待って列車が停まる。乗り継ぎをして、方角でいうところの北部に向かっているようだ。凜にとっては全くといっていいほど土地勘のない地域である。
やがて在来線は、義朗たちにとっての目的地に到着した。そこは、在来線だけでなくローカル線の駅も併設されているバスターミナルだった。交通手段に富んでいることに加えて立地も良さげなところから、近隣のマンションなどの住民にとって非常に便利が良い土地であろうと窺える。また、敷地内には近くの高校の生徒かと思われる、チェック柄のズボンあるいはスカートとネクタイが印象的なブレザーの制服を着た高校生がちらほらと見受けられた。
位置的に、自分たちは地元の反対側まで来てしまったのか。おそらく山一つ越えた先にこそ、見慣れた街並みがある。駅のホームから改札を通り、簡易的な時計台が見下ろすバス乗り場まで出てきた凜は目を回しそうになりながら呟く。
「えぇぇ……、初めて来るよここ……」
陽もほとんど沈み、空は完全に群青に染まる。星々の瞬きも肉眼で捉えることが出来るほどの薄暗い風景と一体になる義朗は、相手に視線を向けぬまま淡々とした口調で凜に応じた。
「電車では、そうじゃろうの」
「えっ?」
その言い方からすると、まるで以前別の方法で来たことがあるみたいではないか。しかし、目を丸くして呆然と祖父を見詰める凜の中で察しがついたのはすぐすぐのことだった。確かに自分は、小学生の頃に義朗と車でこの辺りに来たことがある。
「ああーっ! そういえばかなり前にじいちゃんとドライブ行った時に来たことがあったねぇ! なんだろー、なんかもう全然覚えてないけど!」
自身の中で腑に落ちて、誘発的に記憶が思い起こされてゆく。義朗の一連の言動を踏まえた上で、辻褄が合った。ここまでくれば、北部のこのバスターミナル周辺に来た理由も輪郭がはっきりとしてくるであろう。義朗は口角を上げて頷くように小さく笑うと、その意図を口にした。
「うおお、凜も思い出したかね。記憶の破片は、この辺にあるはずなんじゃ」
「だよね! でも軌道は見えんのん?」
「ほうじゃの、今はそれだけじゃ。ほいじゃけん、今は自分の直感を信じてやっていくしかなかろうて」
「うおおーっ!」
現状頼りに出来るのは、虫の声にも似た非科学的な感覚のみだ。いわゆる第六感と思われる要素から由来した作用に身を任せ、義朗は凜とともに周辺の散策を進めた。




