復讐の支配下
母は、私を捨てた。
まだ5歳の私を親戚の家に置いて、知らない男の人とどこかへ消えた。
私はその時の母の姿が忘れられない。
知らない男の人の腕に自分の腕を絡め歩く後ろ姿。
母のウェーブした長い髪が弾んで揺れていた。
見えない鎖を引きちぎり、何かから解放されたようだった。
また質素な服装から突然、派手な服を好むようになった母がその時着ていた、赤いワンピースとハイヒールを見て私は思った。
「汚い。」
それ以来、母は下品な汚い女に見え、私はその女の血を分け与えられた事に、不満と憎悪を抱いた。
私が捨てられていた親戚の家には、子供がいない。
伯父とその奥さんの二人だけで生活していた。
突然玄関の外に置き去りにされた妹の子供を、伯父は何の躊躇いもなく家に入れてくれた。
あれから13年。
母が突然帰ってきた。
しかし伯父の家には入れてもらえず、追い返されていた。
私はその様子を二階の窓から隠れてみていた。
13年ぶりに見た母は、すっかり年を取り、私を捨てた時の母の面影などは残っていなかった。
いや、私には母の記憶が薄いのだ。
5歳で捨てられ、それ以来会っていないし、私の中の母は、すでに伯父の奥さんに変わっていた。
ただ、後ろ姿だけはなぜか思い出す。
追い返された母が肩を落としながら、帰っていく。
その後ろ姿は、あの時の母と重なる。
赤いワンピースとハイヒールが見える気がするのだ。
母はそれから毎日のように伯父の家に来た。
伯父に許しを乞う為に、閉められた玄関の前で土下座をしている。
伯父は絶対に玄関を開けないのに、何時間も地面に額をつける。
私はふと、そんなに頭を下げ、何をしたいのか、聞いてみたくなった。
私は玄関の引戸を開けた。
突然開いた玄関に驚いたような顔を上げた母。
そして、私を見て誰か分からなかったのか、一瞬不思議そうな顔をした。
その瞬間、私の中にたぎる何かが沸き上がってきた。
「ゆ、ゆみ…?」
母の不思議そうな顔が瞬く間に喜びの顔に変わった。
「ゆみ!私よ!お母さん。」
「お母さん?」
そう言ってみたら、吐き気がした。
「そう。お母さん。ごめんね。あの時はお母さん、どうかしてたの。大人にはいろいろとあってね。あんなも大人になったら、分かると思うけど、お母さん、いろいろと限界で、辛くてたまらなかったの。」
自分の事を何度も何度も、「お母さん」と、言う母に嫌悪感しか湧かない。
私は思わず呟いた。
「キモ。」
すると母は、目を丸くして私を見た。
「キモいよ。おばさん。うちに何の用?」
母は最初、目を潤ませ、唇をプルプルと震わせていたが、掠れた声で答えた。
「あんたを迎えに…来たんだよ。」
そう言いながらも、徐々に下を向く母。
その様子から、迎えに来たなど嘘だと分かった。
「違うね。本当の目的を言いなよ。私はそれが知りたいだけ。」
「嘘じゃないよ!ほんとに…。」
「本当の事を言え!」
往生際の悪い母に怒りが沸いた。
すぐに私だと気付かなかったくせに、何が迎えだ!
土下座を繰り返していた間も、一ミリも家の中の私を探そうとする気配もなかった。
本当に私を迎えに来たなら、窓と言う窓から私の気配を探すはず。
本当に私を引き取りに来たのなら。
でも母はただ、玄関だけを見つめていたのだ。
「あんたの目的を言え!」
私は今日まで、この瞬間まで、自分がこんなにも大きな声が出ることを知らなかった。
その声は高く、言葉の至るところが割れて響いていた。
少しの間、唖然としていた母が下を向きながら口を開いた。
「伯父さん、商売が上手く行ってるみたいだから、ちょっとだけ、用立てて欲しくてね…。」
(汚い女!)
母の本心を聞いて今度は憎悪が沸いた。
目の前の女は薄く笑っている。
何日同じ服を着ているのか分からない位のボロボロの服を着て、無造作に伸びっぱなしのボサボサの髪をして。
「お前は、汚い!うちが汚れるだろ!さっさと帰れよ!」
私は力一杯叫んだ。
でもまだ足りない。
まだまだ、この女には言ってやらねば気が済まない。
こんなもんじゃない。
私の13年間の憎しみは。
私は玄関の横に設置された水道からホースを掴み、蛇口をひねった。
ホースの口を親指で押さえ、勢い良く出てくる水を女に浴びせた。
「ちょっと、止めて。」
女は手で水を避けようとするが、そんなもの何の抵抗にもならない。
私は水を掛けながら女に教えてやった。
「お前が男と消えた後、雨が降った!私はあんたが戻ってくるかもしれないとそのまま玄関の前で立っていたんだ!何時間もずっと!」
あの時の記憶が甦ってくる。
伯父が私に気付いたのは、母が消えて何時間も立った頃だった。
朝早く置いていかれた私は、やまない雨の中、お店に出る前の伯父が玄関を開けるまでずっと、そこに立っていた。
幼い私にそれができたのも、母はすぐに戻ってくるだろうと言う思いがあったからだ。
しかし、母は戻って来なかった。
私は伯父の説得により、家の中へと入った。
そして、すぐに倒れ病院に運ばれたのだ。
「高い熱は3日間続いた。息が苦しくて、何度も目が覚め、何回も泣いた。その度にお父さんとお母さんが私の手を握って、背中を擦って、がんばれ、がんばれ!大丈夫だよって励ましてくれた。」
あの時の辛さや悲しみが思い出され、目に涙が貯まる。
しかし、その涙を流すわけにはいかない。
こんな女に泣かされていると思うと、自分が許せなかった。
だから、女を見て醜い奴だと、嘲笑ってやった。
そして、女にたっぷりと水を掛け、私はホースを投げた。
「おばさん。あんた汚いよ。姿も中身も。こんなに洗い流してやったのに、汚れが全然落ちないね。もう、終わりだよ、あんた。人として終わってるわ。」
そう言った私を見る母の表情はひきつり、体は寒いのかぶるぶる震えていた。
そんな惨めな姿の母を見て、なんだかスッキリした。
これでもう二度とこの家には来ないだろう。
私は母が何をしに来たのかなんて、本当はどうでも良かった。
ただ、罵りたかった。
母をめちゃくちゃに傷付けたかった。
ただ、それだけ…。
私を捨てた母が、晴れやかに、そして、何かから解放されたように歩いていた様に、私も母への愛情が全くなくなった後ろ姿を、目の前の女に見せつけながら、玄関を閉めた。
13年間の私の憎しみは消えた。
明日からは私の新しい人生が始まる。
もう、母への憎しみに支配されることはないのだから…。
読んで頂き、ありがとうございました。