前編
魔法が解けた女と、誰かを待つ王子様。そんなエピソードです。
大手商社のエリート社員×アパレルショップのサブ店長の大人な片思い、最終章です。
今回はワンクッションのためのエピソードとクライマックスを一気に書き上げるという暴挙に出たため、短編としてはパルコ史上最多文字数となりました。
キリのいいところで前後編に分けております。
長いですがお付き合い頂ければ幸いです。
ガラスの靴は、零時の海に捨てられた。
私と同年代だろう彼女は綺麗な人だった。グレーのパンツスーツに黒いヒールを着こなして、チョコレート色の上品なポニーテールは彼女が颯爽と歩くたびにぽんぽんと軽く揺れていた。平日の昼前に、渋谷を彼女と歩いていた男は、私の想い人。外回りだろうか、と勝手に推測する。
「淳……」
彼女の隣で、淳は笑っていた。歯を見せて、切れ長の目をくしゃりと潰して。何の話をしているのかは、街を歩く二人から少し離れたカフェの中に入っている私にはわからない。ただ、私は……あんなに顔をくしゃっとさせて笑う淳を見たことがなかった。
笑顔で話す女性と淳をぼーっと見ていると、来店のベルが鳴った。
「クロごめん遅れた!」
パタパタと私のもと走ってきた男性の声で、スイッチが切り替わった。
長身の男性は、上司の達樹さん。仕事だけでなく、プライベートでも仲良くしてもらっている私の数少ない異性の親友だ。
「ああ大丈夫ですよ」
「なんかアンケート答えてくれってしつこくて」
「あら大変でしたね」
「ホントだよー……ったくー」
うなだれる達樹さんに「まあまあ達樹さん、美味しいもの食べましょ」とメニューを差し出した。
「今日は二人とも休日っていう貴重な日ですし」
「いやビルが休館日なだけだろ」
笑ってメニューを開く達樹さんの一瞬をついて外を一瞥すると、スーツの似合う男前な先輩と美人な後輩は、立ち止まって二人で一台のタブレットを見ていた。
「オムレツのっけナポリタン……」
達樹さんの声で、意識をメニューに戻した。今は貴重な休日に頂くお洒落ランチが大事だ。
「あ、ホントだ美味しそう」
顔が良い先輩と額がぶつかりそうなほど近い距離でメニューを見合う私は、誰の視線も気にしていなかった。
達樹さんとランチに行った日から数日経った今日、行き慣れた新宿のラブホテルで淳と会う予定を立てた私は、ホテル近くのコンビニ前で淳を待っている。
そういえば淳と会うのは一ヶ月ぶりだ。会うのを断っていた理由は単純に、仕事疲れだったり生理が重なったりだったけど、以前は週に一回会っていたペースを考えるとだいぶ空いたな、と感じる。
終わったはずの夏がしゃしゃって嫌な熱気と湿気を連れてくるから、夜なのに一向に涼しくならない。左手でスマホを弄りながら右耳の下に作ったシニヨンに触れる。首が出るようにまとめておいてよかった。髪を下ろしていたら今ごろ首元が汗だくになっている。
その時、
「おい」
ぶっきらぼうなテノールに、私は視線をスマホから移す。外画吹替のような声の持ち主は、身体にフィットしたネイビーのスーツ、明らかに量販店のセール商品よりもランクが上のビジネスバッグを持って、私の前に立っていた。
「ああ」
「行くぞ」
「ウィーッス」
緊張感のない返事をして、淳とホテルに向かう。淳の数歩後ろ歩くのも久しぶりだった。
オレンジと茶色のインテリアで統一された、広くてシンプルな客室を見回しつつ、革張りのソファに深く座る。コンビニで買った新発売のエナジードリンクは、甘さが強いスポーツドリンクのような味だった。
エナジードリンクを飲みつつ少しボーっとしていると、硬い小物がテーブルにぶつかる音がした。音がした方に視線を移すと、テーブルには無造作に放られたロレックス。犯人はすでにジャケットを脱いでネクタイも外している。五十万超えの高級時計をこんな粗末に扱う人間も見たことがない。
淳が立ったままソファの背もたれに手をついて、重い溜息と一緒に何か言ったけど、隣にいても聞き取れなかったので「なんて言った?」と聞いた。
「疲れた」
そう言い直した淳は声に力が無いし、目に光がない。装備も外してシャツの第二ボタンも外して、今の淳は……超一流企業でバリバリ働くエリート社員でもなければ、プライドが高い美女に優越感を与えるモテ男でもない。
「忙しかった?」
とりあえず聞いてみる。
「忙し……いや、まあ…うん、そうだな……」
なんとも歯切れの悪い返事が返ってきた。
「そっか……」
相槌以外の言葉が出ない。何を言ってあげればいいのか。お疲れ様。大変だったね。何かあったの? ……どれも違う気がした。だって私はちゃんと分かっていない。淳が若くして責任が重い役職についているストレスも、気持ちが休まる時間が極端に少ないことも。
せめて座らせようと思って、穏やかに聞こえるように名前を呼んでも、淳はソファに手をついたまま動こうとしない。外回りで一日費やす仕事だから座った方が楽だろうに。
「淳、立ってたら足痛くない?」
私が言うと淳と目が合った。切れ長の目に嵌まった瞳には変わらず光がない。
「ほら」
私が促すようにダブルソファの空いているスペースを軽く叩くと、淳が怠そうな動きでソファに座った。
ソファに深く座った淳は、そのままの体勢で肘掛け側に上半身を倒して静かに目を閉じた。肘掛けに投げ出した腕に頭を乗せているから、ワックスでセットしている髪が崩れて、ハリのある黒髪が質のいいシャツをまとった腕に散った。
私のスマホが二十時十分を表示していることを確認したとき、淳がぱちぱちと目を開けた。疲労はあっても眠気はないんだろう。まあ眠気があったらすぐ帰って寝るか。
仕事では人あたりがいい男は、弱い部分を曝け出す場所がない。同じ役職の大先輩、年上の部下、自分を頼る後輩。そんな人達に揉まれているから、いくら体力があっても疲労は募るだろう。
私はエナジードリンクの空き缶をゴミ箱に捨てたあとソファに座り直した。そして、脱力して投げ出した淳の脚が目に入る。
お疲れ様だな。そう思って、その太ももに手を置いた。淳は触れられたことに反応して体がビクッと動いたけど、私の手を受け入れるように、また上半身を肘掛けに傾けた。
子どもを寝かしつける力加減とテンポで淳の太ももを叩く。こんなにだらけた姿勢の淳も珍しかった。他の女性の前でどうかは、知らない。聞いたこともないし興味もない。
数分間、太ももを叩いていたけど、しょうもない嫉妬を断ち切るように、私はその手を止めた。
「シャワー浴びるわ」
私がバスルームに行くまで、淳が声を発することはなかった。
髪は洗わずにさっとクレンジングジェルとボディソープで顔と体を洗ってシャワーから上がると、淳はソファにだらけたままだった。
「あがったよー」
返事がない。寝落ちしたのかと思って近づいてみると、目は開いている。
「じゅーんー?」
熱でもあるのかと思って、首筋に触れた。熱はないみたいだけど、身動ぎした淳の目は、焦点が合っていない。
数日前に渋谷で見た、くしゃっと笑った顔が嘘のようで、本当に何があったのか心配になる。ただ、淳に干渉する資格は、私にはない。淳の隣を歩いていた彼女なら、何か聞くことが出来たんだろう。
だから、今から話すのは、取り留めのない話。深く入らないように、浅く浅く。
「ねぇそういえばさ、こないだ渋谷に会社の人といなかった?」
「……こないだっていつ?」
ようやく私と目を合わせた男は、私の質問に消え入りそうな声で聞き返した。
「…水曜」
「ああ」
淳がようやく起き上がった。
「水曜……ああ、いたよ」
「だよね」
何を話していたかは聞かなかった。中身のない話をしながら触れたバスローブは、少し肌触りが悪い。
私が質問を解消して、シャワーを浴びる前におろした髪を弄っていると、「ん? 終わり?」とまた質問が飛んできた。
「え? なんよ?」
「いや普通『何やってたの?』とか聞くだろ」
「いや聞かなくても想像つくでしょ。外回りでしょ? それかランチ」
「まあ外回りだったけど…」
何を当たり前のことを。あれで外回りかランチじゃなかったらなんなんだ。堂々とサボるやつを課長にしたとしたら和泉物産はトチ狂ってるぞ。……まあ、そんなことはどうでもいいんだ。
「ねえ淳」
「…なに?」
「シャワーを浴びておくれ」
「動きたくねえ」
「いや頼むよ。そのために私がいるんだからさー」
ぺしぺしと鍛えられた腕を叩いたら、淳は不承顔をしながらのろのろと立ち上がってバスルームに行った。
そうだよ。私は、あんたの退屈凌ぎのために、寂しさ凌ぎのために来た。
夢を見た。淳に似た、十代半ばくらいの男の子が、すらりとした手足を持つ女性を後ろから抱きしめる。女性の顔はわからない。
『昨日相手してあげたでしょうが。この寂しんぼめ』
ただ、呆れたような声が儚い人だった。
最近は頻繁にその二人の夢を見る。二人で静かに過ごす夢も見たし、女性だけが消える夢も見た。多分だけど、あの男の子は淳で、女性は淳が愛していた人だ。その考えが正解ならば、淳はきっと彼女じゃなきゃダメで。
でも彼女には、もう伝えられないんだろう。
淳、幸福に笑って生きられなくても、せめて、あんたの心を緩める人を見つけてほしい。先週の水曜日に一緒にいた彼女みたいに。
淳がシャワーから上がるのを待っている間にベッドで達樹さんとLINEをしていると、ドライヤーの音が聞こえてきた。ワックスも落としたんだろう。男のヘアセットも女のメイクと同じで、スイッチを切ったらすぐに落としたいものなのかもしれない。
達樹さんが推している歌手があと三分で生配信を始めるということでLINEを切り上げた。それと同時に、大きな掌が私のスマホを取り上げた。
「ん? なあ返して」
あれ? なんか関西のイントネーションになった。十二の時から矯正していた方言が出るほどには犯人の唐突な行動に戸惑っている。スマホを取り上げた張本人を見上げると、眉間に皺はないものの不機嫌な表情で。
「達樹……」
低めのハスキーボイスが発した三音は、怒りを孕んでいた。
「いや言うてるやん店長やって。意外にシャワー長くて暇やったからLINEしてただけやで」
戸惑って標準語に戻らない私を、淳はさして気にしていないようだった。
淳は最近、私の交友関係に敏感になっている。少しだけど混乱する。そもそも私たちは体の関係しかないのに、「この関係は特別だ」と言われているようで。それが嫌ではないけど、淳の変わりように浮かれそうになる。
いや、ないか。こいつ好きな人いるし。ただ単純に、退屈凌ぎの都合いい相手を誰かに取られたくないだけだろう。新しい相手を探すのが面倒で、手放すのが惜しいんだろう。
都合いい相手だからこそ、お互いに傷つくことも言ったしデリカシーもなかった。それなのに今は境界線が乱れて、淳を求めたり、欲求に抑制がかかって線引きしたりすることで精一杯だ。
淳は何か言うこともなく、私のスマホをソファに投げた。買い替えてそんなに経っていない、ましてや人様のスマホを粗末に扱う不満は吹き飛んでいて、
「ねえ、そんな気になる? 私たちそんな甘ったるい関係じゃないはずだけど」
言ってやった。突きつけてやった。どのみち境界線なんて踏み荒らされて目視できない。このまま線引きが目視できないまま関係が続くのはまずいだろ。お互いのためにも。
「……そうだな。お前のことは意識してる。お前が思うよりも、ずっと前から」
「え……?」
「ずっと揺さぶられて、振り回されて……」
淳が一瞬だけ口を閉じて、一つ息を吐いた。
淳の目が、変わった。
「お前が憎くて仕方ねえんだ」
……逃げなきゃ。今のこいつ、本当に怖い。
私がベッドから逃げ降りる前に、腕を強く引っ張られて、ベッドで身体が弾む。馬乗りで押さえられて、手首を男の手で拘束されたのは一瞬だった。憎しみの他に混じる光は何か、判別がつかないほどにぎらついていた。
「お前は最初……俺をセフレにしか思ってなかっただろ。でもお前はいつからか俺に踏み込んだり引いたりを繰り返すようになった。何か試すように」
何かを言おうとした声帯は、機能してくれなかった。
「しかも『達樹さん達樹さん』って男の影ちらつかせやがって。……バカにしてんだろ。『掌で転がされてる』って」
淳の言葉を否定したくて、言葉を絞り出した。
「……ちがう」
「違わねえよ!!!」
ああ、久しぶりに、荒く響く声を聞いた。
私は、淳を傷つけた。エゴで踏み込んで、我に返って線引きをしていた私に、淳は一つも安らぎを感じていなかった。私が淳を縛り付けて振り回している。そんなもの嬉しくない。
「ごめ――」
「許すわけねえだろ」
憎しみのこもった声が私の謝罪を遮ったのと、手首の拘束が強くなったのは同時だった。
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――――出会いのきっかけは、淳。ホテルに誘ったのは、私。
新宿のカクテルバーでレモンスカッシュを飲んでいたとき、上等なスーツに身を包んだ淳が声をかけてきた。
『こんばんは、隣いいですか?』
警戒心を解くような甘いマスクと程よい軽さを持つテノールで話しかけた男に、『どうぞ』とだけ言った。
男は職業柄、会話のリードが上手かった。仕事の話だったり、食の趣味だったり、話題がくるくる変わって、でも男の目は笑っていなかった。
ああ、こいつ私と一回やって終わる気だな。
そう思って、バーを出て二軒目に誘った淳を挑発した。
『飲むのはヤだけど……あそこならいいよ』
目に入ったホテルを指して言ったら、男は一瞬だけ眉を顰めた。
『そのつもりだったんでしょ? 違うの?』
淳は不機嫌な顔を崩さないまま、私の腕を強く引いた。
挑発に乗った年上の男は正直良かった。優しい手つきで女の肌に触れる男だった。抱きしめるように密着する躰や、どこか執着めいた光を持つ瞳に、奴の奥底から湧く寂しさを感じた。可哀相に。私は所詮、その場しのぎでしかないのに。そしてLINEを交換して、今の関係が二年続いている。
不毛な関係を続けるうちに、年上の遊び人が極度の寂しがりであることを知った。端正な顔立ちも社会的地位も人望もあるのに、空腹と寒さに耐えるような目が不思議だった。だけど、奴は自分が抱える孤独感も、それを解消する方法もわかっていなかった。
気ままなふるまいとは不釣り合いな、寂しさに満ちた目に絆されてしまった。ただ、私は淳が楽しくなるような話題も持っていなければ淳が想いを返してくれる魅力もない。だったら私といるときくらいは好きにさせてやろう。年の離れた弟妹や手のかかる後輩に囲まれて生きてきた女は、寄る辺のない子どもの目に弱かった。
淳の歪みや傷を治そうという気持ちは、微塵もなかった。
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琴美、と呼ぶ声に、血の気が引くのを感じた。嫌な予感がして「やめて」と言った声は、自分が思うよりかなり細い。
「嫌だね。お前の言うことなんか誰が聞くか。俺は何一つ許してねえし、今からやることにも何一つ悔やまねえ」
「淳っ! 嫌だっ……!」
力任せにバスローブを剥ぐ手を払おうとしても、男の力には敵わなかった。
「全部お前が悪いんだよ! お前がそんな風にしてるから……!」
「やめてっ!」
ガリィッッ!!!
「ぃやああああああああああっっ!!!」
鎖骨を覆う皮膚がエナメル質に抉られたとき、目尻から水が流れる感覚がした。
点けっぱなしだったシーリングライトの光に意識を呼び起こされた。スマホを見ると二十二時を過ぎている。
「痛った……」
ゆっくり起こした身体がバキバキと凝っている。
ふと視線を動かす。
「珍し……」
淳が私の隣で眠っていた。いつもは私を置いて先に帰るのに。ただ、自分の体につけられた噛み痕、下半身の痛みと熱が、夢じゃないことを思い知らせる。とりあえずシャワーを浴びよう。お腹の中に感じる熱さを、飲み慣れた薬は解決してくれるんだろうか。
頭からお湯を浴びて、思考が少しクリアになった。そのあと、私が着替えてもドライヤーで髪を乾かしても、淳は眠ったままで。
淳が眠るベッドに近づく。すっと通った鼻筋、くっきりと二重に刻まれた瞼。表情やアングルによってはエキゾチックにも見える顔は、やっぱり女を惹きつけるものだ。
「淳……」
中指の背で頬に触れると、柔らかい感触が私の指を迎えた。
「ごめんね……。私は、あんたが何を思ってるか…全然考えてなかったね……」
指を滑らせるとすべすべしていて、嫌なテカリも乾燥した感触もない。
「ねえ淳、私は……あんたに初めて抱かれたときから、ずっと……あんたが可哀相だった。……それで、今も……出来ることなら、あんたに幸せになって欲しいんだよ」
私は淳の頭を撫でた。
そろそろ帰ろうと思って立ち上がると、淳の瞼がぴくりと動いて、そのあと、ぱちぱちと切れ長の目が開いた。
「起きた? 私もう帰るよ。今までごめん、また連絡して。もうそんな気も――」
「行かないでリナさん」
「え……?」
知らない名前を呼ばれて、握られた手を振り切るのが遅れた。