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元天才選手の俺が女子高校野球部のコーチに!  作者: 柚沙
第3章 高校1年夏
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紫扇晴風!



「んーあー。眠い。」



時刻は5時半。



ちょうど日の出と同じタイミングくらいで目が覚めた。


昨日は9時過ぎには寝たはずだから、8時間くらいは寝たはずなのにこれだけ暗いと体が起きてこない。



ゴロゴロしたい気持ちを振り切って体を起こして、部屋にあったシャワー室で冷水を浴びて無理やり目を覚まして、軽く全身を洗った。




格好は動きやすい格好で行こうと決めていた。


電車で降りてすぐなら制服とかでもよかったけど、降りてから1時間はこのクソ暑い夏に山登りしないといけないみたいだし。




さっさと着替えて、合宿所から出て近くのコンビニで軽く朝ご飯食べてからバスにでも乗ろうと思っていた。



布団を畳んで、部屋を軽く掃除して6時過ぎに出発した。





合宿所の出口で見慣れた顔が2人ゴミ拾いをしていた。




「雪山、梨花おはよう。」




「龍か。おはよう。」



「…おはようございます。」




凛が居ないのはあの試合の後、高波監督が近くの病院に連れて行ってくれたようで、やはり脹ら脛の肉離れだったようだ。



今日の昼に凛を監督が家まで送ると言っていた。


ここに残していても練習の手伝いなどで無理するのは良くないから、わざわざ福岡に戻ってでも家で療養させるのだろう。



昨日の感じだと重症という感じではなさそうだけど、肉離れは癖になるので絶対安静にして再発しないように休んでもらうのが凛の役目だ。




それはそうと、雪山はかなり気まずそうにして声も小さく、こちらを少しだけ見るとすぐにごみ拾いを再開した。



梨花はいつもとあまり変わった様子もなく、手馴れた手つきでごみ拾いをしていた。





「罰でゴミ拾いさせられてるん?」



「ま、そういうことやな。ゴミ拾いさせられるのとか久しぶりじゃ。」




雪山はこちらの会話は聞いているようだが、話に入ってこようとはしない。



梨花と雪山は喧嘩して気まずい以前に、私生活やグランドで話しているところを見た記憶がない。


そんな2人が一緒にいて気まずくない訳もなかった。




「いつも大声がうるせぇ雪山が今日は声も小せぇし、落ち込み過ぎだと思わねぇか?」




雪山に聞こえないように話すということを一切しない梨花が男らしいのか、無神経過ぎるのか…。




「まぁ雪山も思うところがあるんだろうし、あと3日間はゴミ拾い頑張って。」




「はいよー。んで、龍は朝早くから荷物持ってどこに行くんじゃ?」




「スカウト。昨日監督に急に言われて朝一から行くことになったんだよ。去年のこの時期だったよね?広島まで梨花に会いに行ったの。」




「あぁ。そうじゃった。もう1年経つんじゃな。最初はまた品定めに来たスカウトかと思ったんじゃけど、お前は違ったな。今ゴミ拾いしとるけど、白星に来てよかったと思っとる。」




「そうやね。中学時代一度もエースナンバー貰えなかった女の子が、ここでエース争いしてるってのも面白いけどね。」





「えっ…。西さんって2番手だったんッスか?」




雪山が梨花の過去に興味を示して思わず質問を飛ばしてきた。


梨花は自分からそういうことを話すタイプではないので、中学時代のことを知っているのは俺と桔梗と監督くらいなものだろう。




「3年間万年2番手やったわ。エースはコロコロ変わる癖にワシには背番号1はずっと回ってこんかった。」




雪山はかなり意外そうな顔をしている。



それもそうだろう。


あれだけのストレートを投げられて、1年からエース争い出来る投手が、中学時代にエースじゃないというのはおかしな話だ。




「そ、そうなんッスね…。」




「今だからはっきり言っておくけど、雪山は草野球で楽しい野球しかしてこなかったんじゃろ?もし白星で楽しい野球をしたいなら3年間ベンチ外でもいいって思った方がええ。」




「え…?」




「楽しい野球と勝つ野球はワシは両立出来るとは思えんのじゃ。別に楽しく野球するのはええんじゃけど、もし龍の地味でキツい練習に耐えれんのやったら草野球に戻った方がええと思うわ。」




「そんなことはないッス!試合に出るために頑張るッスよ!」




「口だけならなんとでも言えるわ。本気なら口じゃなく行動で示してみろや。」




「う、う、うるさいッスー!やればいいんでしょ!やるッスよ!」





「そうか。楽しみにしとるわ。」




梨花は雪山を焚き付けると何も無かったかのようにゴミ拾いに戻った。

あまりの切り替えの速さに雪山1人でやり切れない気持ちを持て余していた。




「それじゃ、行ってくるね。」




「あぁ。気をつけて。」


「行ってらっしゃいッッッスーーー!!!」




やり切れない思いを大声で紛らわせている。

梨花にうるさいと俺がいつもやるように頭をグーで殴られているみたいだ。



あれでも梨花なりに雪山を励まそうしていたのだろう。

チームメイトに無関心と言いつつも、わざと遠回りして気づかないようにしてるのも梨花らしい。




ごみ拾いをしている2人に見送られながら、バスに乗り込んで目的地まで窓の外の景色を見ながら今から会う紫扇さんのことを考えていた。




去年、梨花のことをスカウトに行ったがどんな気持ちで言ったかも覚えていない。



確か、何も知らされずに梨花のスカウトに行ってめちゃくちゃ口が悪くてどうなることやらと思ったが、俺の事を気に入ってくれて助かった。




「今日もそうなってくれるといいけどな…。」




目的のバス停に到着するとそこは思ったよりも田舎で、周りに何があるかと言われれば山と川と民家しかない。



長崎でもどちらかというと内陸部の方に来たのか?

今いる所から海も見えないし、朝早いせいか人がいない。



今から登らないといけない山を前にして早くもげんなりするのであった。




1時間登るのは何基準で1時間なのかと思いながら、かなり急な山道を登ることになった。


車の通れる道もあったが、山道を選択してガタガタしている道を軽快にどんどん進んで行った。




すると30分くらいで、かなり大きな道場のような古くて立派な建物が見えてきた。


俺は昨日貰った地図を広げて確認してみたが、山道の方を選択したせいで今どこなのかわからなくなっていた。



地図の建物の大きさ的にはここで間違いないと思うが、野球から遠く離れたスポーツしかやっていなさそうだが…。



野球のやの字もないこの場所で俺は何をしているのだろう。

この道場らしき所に住んでいるのが紫扇さんなのだろうか?



そもそもこんな山の中に野球場があっても

、中学生たちが練習に来るには遠すぎる。




最悪スカウト失敗したと言って長崎観光にでも行こうか本気で迷っていた。




「…あの。ここに何の用ですか?」



俺はどうしようか考えながら大きな門の前をウロウロしていると、巫女さんのような格好の女の子が恐る恐る声をかけてきた。



よく見ると巫女さんではなく、ここ道場の道着だろうか?



年齢も16歳くらいの俺と同じ歳か、少し上に見えるような大人びた雰囲気の女の子だった。



「あ、あの。初めまして。ここに紫扇晴風さんという方を訪ねに来たのですが…。」




「…私が紫扇晴風ですが。」




まさか第1発見者が俺のお目当ての紫扇さんだった。


中学三年生にしては大分大人っぽいような気がしたので、流石に紫扇さんではないと思っていたが俺の見る目もまだまだということだ。




「あ、そうでしたか。自分は福岡白星高校のコーチをやっている東奈龍という者です。単刀直入に言いますが、紫扇さんをスカウトに来ました。」




「はぁ…。」




紫扇さんはまたかという感じのリアクションと、面倒くさそうな雰囲気が俺に痛い程伝わってくる。




「…福岡からわざわざここへ?」




「まぁ一応は。近くで合宿をやってまして、そこから監督に言われるがままここに来たという感じです。」




俺は直感で彼女には上辺の言葉が通用しない気がした。


褒めたりしても一切靡かないタイプの人だと思う。



こういう直感は信じることにしている。




「…合宿ですか。もしかして友愛と一緒にやってたりしますか?」




「よく分かりましたね。姉妹校らしく今年はこちらに合宿でやってきたという感じです。」




「…やっぱり。昨日友愛のスカウトの方が球場ではなく、うちに来られたのでもしかしてと思いまして。」




選手のスカウトの為に自宅に訪問するのはあまり褒められたことではない。


俺も自宅まで押しかけているので人のことを注意する立場でもないのだが…。




「…申し訳ないですがお断りさせて頂きます。」



「まぁそうですよね。分かりました。」



俺は断られることを予めわかっていたので、ショックをほとんど受けずに済んだ。



俺は一礼して帰ることにした。




「あ、最後に少しだけ聞かせてもらいたいことがあるんですが…。」




「…え?あ、はい。なんですか?」




俺があまりにもあっさり帰ろうとするので少し驚いていた。


と思ったら急に質問されてさらに驚いていた。




「それって道着ですよね?ここって剣道場とかですか?柔道着とか空手とかそういう道着じゃないと思うんですけど。」




俺はそもそもここは一体なんの道場なのか?


俺は彼女の打撃能力も知らないし、友愛が欲しい選手だということと、天見監督が絶賛してるということしか分からない。



うちは打撃が今弱いからそこにピンポイントで食い込める打者なんだろう。



それにしてもトレーニング用のジャージでもなく、野球のユニフォームでもない道着で出会うと嫌でも気になる。




「…あんまり馴染みがないかと思いますけど、ここは居合道の道場です。」




居合道?合気道ではなくて?



俺は聞きなれない武術と出会った。

聞き間違いではなければ全く俺が知らないジャンルだ。




「居合道ですか?申し訳ないですが、全然知らないんです…。」




「…はは。仕方ないですよ。普通の人なら剣道や柔道や合気道、空手などを目指されると思いますので。」




「居合道とはどのような武術なんですか?」




俺はもはやスカウトに来たというよりも、この道場に入門する為に見学してきた高校生になっていた。




「…そうですね。居合道は武術というよりは武道と呼ばれるものです。居合切りというのは分かりますよね?」




「はい。居合切りは漫画や映画などで見たことがあります。」




「…剣術は立合から始まるものばかりですが、居合道は違います。」




「…居ながらにして合う。座っていながら遭遇した敵と戦うのを想定した武道なのです。いつでも居合が出来る為の技術。と言ったら分かりやすいですかね?」




俺が思っている居合切りとそこまでは相違はないようだが、居合切りのイメージといえば相手と対峙してから抜刀して一撃で相手を切るという技のイメージが強い。




「なるほど。日本古来の武道という感じですよね?自分はこれまで野球以外のそのようなものに一切触れたことがないので、あんまりイメージが湧かないんです。」




ここでいきなり特に知らない武道についてペラペラ話しをしても仕方ない。



知らないことは知らないと言って本職の彼女から教えてもらうのが1番いいだろう。




「…そんなに難しく考えなくても大丈夫ですよ。基本的には正座の部という正座からの抜刀が主です。居合膝の部という膝立ちのような姿勢からも抜刀をする形もあります。」




俺は久しぶりに自分のは全く知らない世界の話を聞いて興味津々になっていた。



剣道とか柔道とかは結構身近にあるが、居合となるとそうはいかない。




「…起立した状態から行う立業の部というのもあります。これが多分東奈さんがイメージするものに近いかと思われます。」




紫扇さんはとても丁寧に居合道について教えてくれた。


とても有難いことなのだが、俺の想像力が乏しいのかどんなことをするかがイマイチ想像出来ないのが残念だった。




「説明ありがとうございます。それでも実際のイメージは湧いてこないですね。」




俺はイメージが湧かないことを少し照れながら正直に伝えた。




「…そうですか。実技を見せてあげられればいいんですが、朝の掃除で今から3時間くらいかかるので…。」




俺は聞き間違えたかと思ったがそうではないらしい。


掃除に3時間ということはもしかして彼女1人でこの道場を掃除しているのか?




「俺も実技を是非この目で見てみたいので、問題なければ掃除手伝ってもいいですか?」




「…え?掃除ですか?私は修行としてやっている訳では無いので、早く終わるならそれは助かりますが…。」




「それならまずは何からやりますか?」




「…その前に、私は年下ですので敬語は止めてください。少し話しずらいので。」




「分かった。ならタメ口で話すよ。」




「…はい。そうしてもらえるとこちらも話しやすいので。それでは最初に道場まわりのゴミ拾いからやりましょう。夜にここら辺には走り屋と呼ばれる人が来てゴミを捨てたりするので…。」




ここまで丁寧な言葉遣いと仕草だった紫扇さんも少し怒ったような雰囲気を感じられた。



あまりにも完璧な人だと取っ付きずらいが、年相応に面倒臭いことには腹も立てるんだろう。




「…それにしても変わった人ですね。ここまで歩いてきたんですよね?」




「山道で近道して30分くらい掛かったけど、紫扇さん学校とかすごい時間かかるんじゃ?」




「…そうですね。女の子らしくないあの自転車に乗って登校してますよ。」




そういうとその指をさした先には、俺の使っているものと似ているロードバイクが壁にしっかりとロックされていた。




「あれで登校してるのか。俺もあれと似たもの使ってるけど、この坂を毎日登るのってキツくない?」




「…去年の中頃までは1度も降りずに登りきれなかったです。今でも楽では無いですが、普通に登りきれるようになりましたね。」




「野球のトレーニングにはいいと思うけどね。」




「…まぁそう思わないと漕ぎ続けて登って来れないですよ。」



女子中学生にしては環境のせいで、毎日ハードなトレーニングやらざるを得ないようだ。




「もうひとつ聞きたいことがあるんだよね。居合道をしっかりやってるみたいだけど、中々野球に手が回らないんじゃないかな?」




「…そうですね。居合道は週6で鍛錬に勤しんで、野球は多くて週4回、少ない時は2回くらいしかないです。」




俺はかなり驚いた。


打者というのは毎日素振りをして、その繊細な感覚を毎日忘れないようにする。



俺はずっとそうしてきたし、今でも毎日時間はバラバラだけど打撃練習だけは欠かさずにやるようにしている。



居合道というのは打撃に通ずる物があるのか?


俺は彼女がどんな打撃フォームなのかも、アベレージヒッターなのか、スラッガーなのかも分からない。



彼女は道着を来ているから体型は分かりずらいが、身長は162.3で体重は55くらいだろうか?


半袖の道着から見える腕は、いい意味で女性らしくなく引き締まっている。



下半身は多分毎日の坂登りで鍛えているだろうから、問題ないだろう。



体格から分かるのはスラッガータイプの体型ではなさそうた。



それでもボールを飛ばすのは力だけではなく、技術でボールを飛ばすことも出来るので実際のところなにもわからない。




紫扇さんの見た目は真っ黒の長い髪の毛を1つに綺麗に結んでいる。



今は外でごみ拾いをしているが、道場で居合道に勤しむ姿はとても絵になるだろうと思っていた。




「ならあんまり野球の練習出来ないのに、そこまで色んなところからスカウトくるまでの実力を手に入れるのは難しいだろうに。」




「…そうですね。私は特別な環境なので野球漬けでここまで来たわけでないです。俗に言う筋トレというものも一切やったりしませんしね。」



筋トレをしたことがないか。


筋トレは賛否両論あるが、俺は筋トレはきっちりとやった方がいいと思っている。



条件付きで()()に間隔をあけて少しずつ体の一部にしていくのがいいだろう。



スポーツ選手でもボクサーや長距離ランナーなどは脂肪を最大限まで落とすが、野球はその必要は無い。



程よい脂肪がある方が体のバランスもいいのだ。



プロ野球や長く連続で戦う地方大会や甲子園などの時に、バテて食事が取れなくても脂肪があればそこから消費されて、体の疲れも軽減されることも期待できる。




「…身の回りの生活で全身をくまなく使うので、筋トレする必要を感じなかったのです。この後は道場とその周りの廊下の雑巾がけをしないといけないので。」




俺は彼女の話を色々と聞いた。


最初はとっつきずらいかと思ったがそんなことは一切なかった。



俺は彼女に少し似ている気がした。

俺も最初は相手のことを警戒して探り探りの会話になりやすい。



この前の三海さんとの最初の頃は、彼女に申し訳ないくらい身構えていたことを思い出した。



軽く草むしりもしてパッと見て綺麗になるまで、1時間くらい会話をしながら掃除を2人で終わらせた。



「…ありがとうございます。ごみ拾いまでではなく、草むしりまでやってもらってとても助かりました。」




「いや気にしなくても大丈夫。それで次は道場の中の掃除かな?俺が入っても大丈夫なの?」




「…道場だからといって、部外者が足を踏み入れてはいけないとかはそのような決まりはありませんよ。見学者も最初は私服でいらっしゃいますし。」




俺はそのまま道場の入口まで来た。


彼女は普通の礼ではなく、この道場のものか居合道のものかわからないが一礼して道場の中へ入った。



俺はとりあえずしっかりと頭を深々と下げて道場内へ入ることにした。




「…この道場一面を雑巾がけします。東奈さんは中をお願いします。私は廊下をやってその後にこちらへ戻ってきますので。」



さっきまでは紫扇さんのことを聞きながら掃除をしていたが、こんな大きな場所を1人で雑巾がけというのは骨が折れるな…。



そう考えると彼女が毎日やっている掃除は全身運動になっているんだろう。



体に負担がかかる様な作業はあまりないならいい運動にはなるだろうし、この後に鍛錬か練習をやっていたら筋トレは確かにしなくてもナチュラルな筋力がつくかもしれない。




「…やっと終わりましたね。いつもなら倍はかかりますが、2時間くらいで終わったのでとても助かりました。ありがとうございます。」




「いえいえ。それは全然気にしてないけど、よかったら居合道を俺に見せて欲しいんだけどどうかな?」




「…その為に手伝ってもらっていたので。」




そういうと俺に説明しながら実演してくれるらしい。





「…武道は礼に始まり礼に終わるものですが、居合道も同じです。」



それは俺でもなんとなく分かる。

剣道や柔道を最初にしっかりと礼をしている。



「…居合の礼は4種類あります。まず最初に上座への【神座への礼】。」



江戸時代に居合の演武は藩主へお披露目する機会があったらしく、そこで上座に座る藩主へ礼をするようになった。


それが演武前後の【神座への礼】になったと分かりやすいように説明してくれた。





「…次に、練習前・演武前の【刀礼】と練習後・演武後の【刀礼】。」




「刀は武士の魂」という言葉をよく耳にするが、その精神は居合道にも存在し自身の刀に対する礼儀も大切にしているらしく、それが【刀礼】とされているらしい。




「…試合前後に対戦相手と行う場合は、【相互の礼】があります。」




礼を一番最初に教えてくれるのはそれだけ居合道の礼節を重んじているんだろう。


俺達も練習前、練習後に頭を下げて礼をするけど、野球の練習を見せてと言われて最初にグランドに礼をすることから教えたり出来ない。



改めて居合道を通して礼節の大切さを学んだ気がする。


彼女は指導者とかではなく、年下の女の子からそれを学ぶことになるとは思わなかったが、そのような機会もそうそう無いので俺はいい経験が出来たと満足していた。




「…それでは今から実演します。1度目はゆっくりと形を見せます。2度目はいつもの試合のように鋭い動きになると思うので、しっかりと見ておいてください。」




そういうと礼をして、正座をして一瞬だけ目を瞑り集中しているのだろう。



静寂が道場内を包む。

自分の息づかいと外の風の音が少しだけ聴こえる。



彼女からずっと俺の事を警戒する雰囲気を感じてきたが、今はそのような雰囲気を一切感じなくなった。




長いような短いような静寂を切り裂くようにゆったりと抜刀して、体の前まで刀を動かして、刀を切り返すような動き。



そのまま上段まで刀を振り上げ、そこから右下にゆっくりと切り下げる。



また刀を切り返し、刀を鞘にそのまま納刀した。




ゆったりとした実演だったが、その体に何年とやってきた動きに一切無駄も感じられなかった。



居合道のことなんて今日まで知らなかった俺にでも、彼女が今披露したゆっくりした実演に一寸の狂いもないということが分かった。




「…次はいつもの速い動きでやります。」




「ふっ。」




一瞬で抜刀して、振り抜いてから切り返しの早さもさっきとはまるで違う。


上段から振り下ろす速度もその動きは一瞬で本当に()()という言葉はこのような刀の動きなのだろう。




納刀して、また正座の体勢に戻った。




「…他にも色々な形がありますが、見てみますか?」




「もし見せて貰えるなら是非。」




紫扇さんは少しだけニコリとして色々な居合道の形を披露してもらった。


どの技も多分素晴らしい腕前なのだろう。


俺はそれが合っているか合っていないかは分からないが、その精錬された動きを見て偽物だと思うことは無かった。




「ふぅ…。…歳の近い男性にまじまじと見られるといつもと違う緊張感がありますね。」




「お疲れ様。素人の俺には詳しく分からないけど、とてもいい実演だったよ。見せてくれてありがとう。」




「…そうですか。それならよかったです。」




紫扇さんは少し恥ずかしがりながらも俺にぺこりと頭を下げていた。




「あまり道場に長居するのもよくないよね。それじゃ、俺はそろそろ帰るよ。」




「…え?」




「ん?俺が長崎に住んでいたらここの道場に入りたかったけど、福岡からだと無理だからね…。」




俺は本気で居合道というものを学んでみたいと思っていた。



真剣にはやってみようとは思ったが、その道を極める為ではなく、趣味の一環として始めようと思った。




「…それならこの模擬刀を使って、少しだけのご指導させていただきます。」




「なら少しだけお願いしようかな。」




俺は礼の仕方から習い、その次に正座から抜刀して、基本の体の動きを通してやらせてもらった。



模擬刀の重さはいつも使っているバットとそこまで変わらない気がする。



その模擬刀をあれだけの速さで振り抜くのは無駄のない動きがいるだろう。


俺の方が絶対に力はあるのに、振り抜く刀は遅いように感じる。




「野球してるからもっと早く振り抜けると思ったけど、刀を振るのとバットを振るのじゃやっぱり違うんだね。」




「…そうですね。けど、東奈さんからとても素晴らしい運動能力を感じますし、とても飲み込みが早いと思いますよ。」




「そうかな?趣味とかで始めてみたいな。」



「…いいと思いますよ。みんながみんなその道のトップになるためにやる訳では無いですし。野球もそうですよね?」




確かにそうだ。


俺は野球に携わっているが草野球を楽しんだり、趣味程度の人を見下したりする事なんてことはない。



目標が違うだけで同じものを愛する仲間に上も下もない。




「確かにそうだね。紫扇さんは野球は趣味とかでやってる?」




「…趣味ではないですかね?真剣にやっていますが…。」




何か意味ありげの言葉だったが、俺はこれに突っ込むかどうか迷っていた。




俺は少し前は蓮司との会話を思い出した。





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