パッチワーカーのけだるげな日
一人目。
幼い少年となった“人間”は、目が覚めると知らない土地にいた。
ビルもなければ駅もない。古びた石壁とレンガの畳が連なるところ。
きょろきょろと辺りを見回したが、知り合いなどもちろんいない。さっきまで、残業後の帰路についていたのだけど。
少し埃っぽい夜の空気。冷たい風が彼を突き刺した。コツコツと無数に響き渡る足音すら、恐怖の対象になった。彼の足音は、吐息は、すべて掻き消される。人間は人間が思う以上に冷たいのだ、この夜のように。
……可哀想に、彼は途端に身寄りがなくなってしまったのだ。しかし哀れな少年は幸運にも、見知らぬ女に拾われた。
茶色い扉がギイ、と閉まると、少年は夜の空間から遮断された。あたりは一気に橙色の、理想的な冬の家……少年は思わず小さな雫を二滴、溢した。それとは対照的に、女は暖かく笑う。
木のお椀とスプーン。その柔らかい手触りは、少年の緊張すべてを和らげた。見知らぬ女に対しても、見知らぬ女から「優しいおばさん」に変わった。
パチパチと燃える暖炉の音は、彼を迎え入れるクラッカーのよう。凍っていた体が解けるような感覚が少年を包む。
お椀にはとろみのある、乳白色のスープ。そしてバスケット一杯の、石のようなこげ茶色のパン。一見質素だが、少年にとってはこの上ない食事だった。
「お腹がすいているだろう」と、おばさんは言い、彼の頭を撫でる。
ああ、言われてみれば。腹の虫がうずいた。
食卓に、少年と女。知らない人から見れば、彼らは間違いなく家族だっただろう。
少年は小さい手で、彼にとっては少し大きいスプーンを握りスープに近づける。
――――が、しかし。
……乳白色だったスープはとたんに赤く、黒く変わった。
それはじわじわと容器全体に広がり、やがて少年の頭もビチャリとそこに落ちた。
女は大きな斧を振り下ろし、少し黄ばんだ白いエプロンを鮮血で染めながら嗤う。
「子どもの肉は柔らかい、今日は大儲けだ」
二人目。
駄目だ駄目だ、騙されちゃ駄目。どんなに優しそうな人でも、裏には何があるのかわからないのだ。
最初に学んだ教訓がそれなのだが、少女はその理由を思い出せない。
いったい誰が誰を騙すの? 優しい女の人が独りぼっちの少年を助ける。でも女の正体は食人種だった、みたいな?
「……なんだっけ」
思い出せない。しかし思い出せないなら、それほど重要なことでもないのだろう。
少女は北の雪道を歩く。よくある田舎だ、彼女以外には誰もいない。民家など一つもなく、山は空気の層越しに見え、青く映った。彼女の向かう先には枯れた木々が並んでいる。
「? ……なんで歩いてるんだろう、私」
銀色の視界の中で、ぐるりと思考が回った。気が付いたらここにいた。その理由はわからない。……昨日。そう昨日は、もっと暖かい場所にいたはずなんだけど。
びゅう、と北風が吹いた。
少女は思わず体を震わせ、コートのポケットに手を突っ込んだ。
すると、冷たく硬い感触が彼女の指先に触れた。雪よりも鋭く、残酷な存在。小さなナイフだ。
幸い、うっかり手を切るような真似はしなかったが、触れた瞬間の身震いは否定できなかった。寒くて震えるのとはわけが違う。
しかし……なんで? なぜナイフが?
「わからないなぁ……」
ざくざくと一人分の足音が響くなか、少女は唸り考える。帰ろうにも、帰る家がわからない。そもそも自分はどこかへ向かっているのか? それとも帰路についているのか?
ざくざく
ざくざく
ざざく、ざざ、ざざく、ざく、
「――――!」
増えた足音に気が付いた少女は、とっさに振り向いた。
そしてすかさず、ナイフで足音の主を殺した。刃を上向きにして刺せば、非力な彼女でも容易に大人の肉を裂くことが出来た。白に赤が染みつき、みるみる広がる。この景色には、似合わない。
「……なるほどね、たしかに騙されちゃいけない」
――――どんなにか弱い少女でも、ナイフを持っていないとは限らないのだから。
三人目。
輪廻ががちりと変わった。
あの少女は、いろんなことを知りながら、いろんなものを潰しながら、生きていくのだろう。
……いったいなんだったんだ、あのガキは。
麻袋を手にしているのがばれたのだろうか、あの少女の咄嗟の殺意に、男はあっけなくやられてしまった。くそ、売りさばこうと思ったのに。
男……というのは、現在の姿ではない。今は魔法具を売る、若く麗らかな少女。
その事実は、男にとってさほど重要ではなかった。今までいろんなことがあったゆえ、感覚が麻痺しているのだろう。転生の一つや二つ、なんのその。
……むしろ、救われたのだ。
誘拐はもちろん……過去に犯した数多の犯罪から、足を洗いたかったのだ。
偶然手にしたこの好機は、神様からの贈り物だ。逃すわけにはいかない、少女として真っ当な人生を歩もう。彼は心に決意を宿した。その感情は、曇り一つない。
チョコレート色の木でできた街並みに混ざる魔法具店では、店内のあちらこちらに宝石が煌き、五色の光が揺れている。
金色の星粉を混ぜた糸で織り込んだ絨毯がふわりと浮いた。そのまま客の元まで行き、カウンターに金貨二十枚が置かれる。少女はそれを夜色の布袋に詰めた。チャリチャリ、と嬉しい音が響く。
子どものころ抱いた夢のようだ。少女は思った。
喋る杖も、空飛ぶほうきも、合図一つで膨らむ炎も、幻想の産物だ。おとぎ話の中に放り込まれたような感覚に陥った。
その夢の登場人物になれたのだ、この上ない喜びだった。
――……喜びだったのだが。
店を閉めた帰り道、人通りの少ない路地。少女は見知らぬ男に連れられ、やがて絶命した。
「お嬢ちゃん、ごめんねえ」
ああやっぱりそうかと、少女は思った。
あまりにも出来すぎた幸運は、信じない方が幸せなのだ。多幸感のさなかにいても、自身の罪からは逃れられない。一生付きまとう、呪いだ。
彼女は夢の登場人物ではない……彼女の物語は、夢ですらない。
パッチワークの一部なのだ。それ以上でも、それ以下でもない。
四人目。
この世に神なんていない。信じていたものは全て崩れ落ちた。
かつてラジオから聞こえた無機質な音声は、敗北を人々に伝えた。
神だと強く信じていた存在も、ただの人間だったのだ。
青年は学生帽を深く被った。
青年の記憶はあまりに欠如していた。あるのは戦争で失った人たちと、当時の記憶。
パチパチと火の粉を散らしながら、灰と埃が渦を巻いた日々。焼け焦げたその先は、途方もない虚無だ。
旭日旗が血塗られたような感覚だった。戦争が終わるたびに、兵隊は広場にぞろぞろと群れを成した。彼らの表情は、暗く鈍い曇天模様。
それが印象強く残ったがゆえなのか、青年は広い場所を恐れた。彼にとって、大きな空間は兵の帰るところなのだ。今も狭さを求めている。
まっさらな雪原に、ボタリを血を落としたのが彼の国。足並み揃った軍隊の足音は、地響きのように突き刺さった。そんな幻想を抱きながら、追想。
……ああ、こんなことを考えたら、
「――殺されちゃうよなあ」
目元に塗られた大きな隈を歪ませ嗤った。白く痩せこけた頬に、骨のような指。そんな彼は焼けた街を歩く。失われた故郷を想う。
彼がいくら反骨心を抱いても、歴史は刻まれていくのだ。……彼などまるでいなかったかのように。表面上の名誉や事実が「歴史」となるのだろう、彼は僅かに顔を歪ませた。
ああ広い、ここは広すぎる。
靴底と砂の擦れる音をいやに鳴らしながら歩いた。
砂埃など気にしている暇もない。もうじきもっと広く大きな埃が立ち込めるのだろう。傀儡となる我が国の未来が透けて見えるようだった。空を切るプロペラの幻聴が聞こえる。
……世の中は、広すぎるな。
歴史は果て無い荒野だ。青年にとっては恐ろしく広い。兵の帰る場所も、故郷だったあの家も、長い歴史があったのだ。無理やり縫い合わせたような、でっち上げの事実ではなく。
黒く焼けた土の上に、鮮血が弾けた。
青年は、魂を自己の中に閉じ込めることを決めた。
歴史の一部にならなくたっていい……しかし、自身の命をどこかに書き留めておくような場所が欲しかった。彼の生きた証は、それでじゅうぶん。それが叶うかどうかはわからないが。
残酷な闘いの記憶なんて忘れ去ってしまおう。命は消えては生まれの繰り返し。ならば、早めに切り上げた方が賢明だ。こんな人間に生きるよりずっといい……彼は全てのことから目を背けた。そんな自分にも、嫌気がさす。しかし、事実を受け入れるような余裕などない。次にまかせるしかないのだ、こういうのは。
ああ、
「こんな人生もう飽き飽きだ。……反吐が出る」
ひゅうひゅうと細く貴い風が、彼の喉から聞こえたが、それも束の間だった。生に執着できなかった哀れな男の人生はここで幕を閉じた。
……せめて次は、まともでいてくれ。
五人目。
狭い世界で起こることは、もっと狭い。
この廻り回る輪廻も小さな事象に過ぎないのだ。
EXP(経験値)がばらばらと散った。かつてモンスターだったものが、光る粒となって弾ける。
黄土色の地面に青々とした草が生えているフィールド上で、剣を握る少年は息を吐いた。
EXPが少年の体に吸収されると、電子音が響いた。Lvが上がった証拠だ。
手に入れたステータスポイントを割り振る。攻撃多めで、少し防御。
冒険の仲間が四人いたはずなんだけど……みんな消えてしまった。
――……いや、殺した。
気が付けば自分ばかりが強くなって、周りがどうにも弱く感じてしまって。違和感すら覚えたほどだ。
そんな仲間たちを足手まといに思ったのだ。回復ポットなんて、自分のものだけでいい。
殺したときですら、彼らは弱かった。軽い剣をいくら突き刺し貫いても、そこに肉体の厚みや重みなどない。血液など流れるはずもなく、発光した塵と化し彼の一部になってしまった。
始めは強さを実感し、喜びを覚えた。強いか弱いかなら、強い方が絶対に良い。
しかし、その喜びもそう長くは続かなかった。かつてないほどの、孤独。
残った虚無感に、彼はデジャヴを感じた。……なぜ。まるで過去に、孤独と共に死んでいったような感覚に陥った。もちろん、そんな経験は一度もない。にもかかわらず、既視感を拭うことが出来ないのだ。
――強さを手に入れたはずなのに、たかがゲームのはずなのに。
汗が頬を伝った。鎧の暑さに違いない。冷や汗? そんなまさか!
あいつらだって、ただのNPCだ! 殺すと言えど……
「――俺は、何も、」
背後に襲い掛かったモンスターを斬った。醜い蝶のバケモノは死んだ。……倒した!
あとからあとからやってくるそれを、次々と払った。機械的な、殺傷音だけが響く。
光の粒が雨を降らしたようだった。ちらちらと煌く、成長の証。音もなく落ちる豪雨の中、彼は。
Level Up!
Level Up!
Level Up!
Level Up! Level Up! Level Up! ………………――――
……――やめてくれ。
「もう――やめてくれ!」
彼はようやく罪に気づいた。モンスターも仲間も、はっきり、しっかり、紛うことなく、
殺したのだ。
殺したし、殺された。自殺もした。生命をパッチワークのように次から次へと繋ぎ、輪廻を巡らせた。
あるときは西洋の子供、またあるときは雪国の少女。誘拐犯は魔法の住人となり、極東の青年は自ら命を絶った。
そして彼は、ゲームへの迷い人。
この輪廻は、どこまで続く? 果て無い転生の繰り返し、倦怠感と虚無感が付きまとう迷惑な日でしかない。
全てを思い出した彼は、光り降り注ぐ雨の下、その剣を自身に、突き立てた。
黄土色の地面に、ボタリと真っ赤な丸が出来る。無数の蝶たちは彼の亡骸を啄んだ。魔法の鱗粉はバサバサと舞い、地面に落ちると雪になった。
ああ、どうか次は、もし次があるとするなら、
どうかその生を失わないでくれ。
……六人目。
とある時代の終末。機械や人も溢れてしまうこの土地に、一人の人間。
どこにでもいそうな誰か。
仄かな光を発する液晶。そのディスプレイ越しに、何かを読んでいる。
……ああ、「何かを読んでいる。」という文章を読んでいる。
そしてうすうす気が付く。
……残念だけど、この話はもう終わりなんだ。
「パッチワーカーのけだるげな日」だって。ああ、本当に滑稽だ。こんなくだらない話、一体誰が?
うん……まあ、作り話だよ。文字の羅列でしかない。それでも人は、空想を求めるんだよね。自分の人生が嫌になったら他人の人生に入りこめる、それもたくさんの。
君がこの話をどう受け止めるかなんて知ったこっちゃないが、暇つぶしにはなっただろう。これを読むということは、そういうことだ。
じゃあ、またいつか。会えるといいね。
……あ、そうそう。
――――……残業後は、帰り道に気を付けて。