昏い夜明け ②
ハクと話していた時間は、長いようで短い不思議な感覚だった。
初めて出会った日のこと、初めて空を飛んだ日のこと、初めて黒衣に変身した日のこと、初めて喧嘩した日のこと。
語り明かせば幾度の夜も超えられる気がするほど、話題は次から次へと湧いて出る。
それでも、どうしようもなく終わりはやって来るのだ。
「…………マスター」
「どうした」
「そろそろ駄目みたいです」
「そうか」
ハクの胸に刻まれた風穴は、初めに見た時よりも広がっている。
それはスノーフレイクの力でも延命できる限界が近いことを知らせていた。
「……死ぬな」
「死にたくないですよ、そりゃあ」
子供じみたわがままじゃ何も変わらない、死に行く身体は決して癒えちゃくれない。
そしてこの窮地を救うような奇跡など、決して起こらない。
「マスター、最期にお願いをひとつ聞いてくれますか……?」
「やめろ、最期なんて言うな」
「じゃあ、ただのお願いです。 お願いだから……あなたは、死なないでください」
「…………善処するよ」
十中八九守れない約束だ、ハクだってそれを分かって言っている。
嘘でもいいから「はい」と言えば多少はハクの心労も無くなっただろうに、それでも俺の口から出たのは正直な言葉だった。
「まあ、マスターならそういうと思いましたよ……仕方ないなぁ、葵ちゃん達泣かせたら許しませんからね」
「その時は思う存分叱ってくれよ、先にあの世で待っててくれ」
「……私、天国と地獄のどちらに行きますかね」
「どこだろうと必ず探し出す、心配するな」
「はい、待っているので目一杯遅刻してきてくださいね、私のマスター」
ハクの身体が風化していく。
それは今まで何度も見て来た、魔物が絶命する時の現象だ。
「……それでは、さよならです。 また会いましょう、マスター」
「ああ。 またな、相棒」
掴んだ掌が風に溶けて消えていく。
肌の温もりすらも無く、その場に残されたのは抜け殻のような毛布と、人差し指ほどの大きさしかない白色の魔石だった。
≪……終わったのね、話≫
「なんだよ、聞いてたのか」
≪なんとなくよ、魔力の反応が一つ途絶えたから……あと、お客様が来てるわよ≫
「ああ、分かってるよ」
言えの外から聞こえるかすかな足音と、崩壊する扉が立てる大きな物音が侵入者の存在を知らせる。
だがわざわざ警戒するような相手じゃない、この状況でわざわざ東京までやってくるような奴に心当たりは一つしかない。
「……失礼します」
「騒がしいな、もっと静かに入って来いよ」
飽きるほど聞きなれたはずの声、振り向かなくても誰かなんてすぐにわかる。
「なんの用だよ、ラピリス。 もうろくに時間も残ってないってのに」
「だからですよ、ブルームスター。 時間がないからこそ、彼女と話す時間が必要でしょう」
ハクが居た毛布の隣にそっと寝かされたのは、全身にヒビが広がったスノーフレイクだった。
やはりンロギに与えられた心臓の傷が致命的だったのだろう、胸を中心に広がる亀裂はもはや止められそうもない。
「スノーフレイク、起きてください。 着きましたよ」
「…………ぁ……お兄、ちゃん……」
ラピリスが軽く頬を叩くと、限界に近いはずのスノーフレイクが目を覚ます。
吐息は弱弱しく、その姿は言葉を吐き出すたびに命の灯火が削れていくと思えるほどに脆弱だ。
「ハク、ちゃん……は……」
「一足先に逝ったよ、笑ってた」
「そっ、かぁ……ごめんね……」
「謝るなよ、あいつが最期まで苦しまずに済んだのはお前のおかげだ」
痛みの鎮静化に加え、十分話せるだけの時間も与えてくれた。
感謝しかない、ましてや謝られるなんてもってのほかだ。
労いの意味も込めて壊れそうな頭をそっと撫でると、ひび割れた頬を緩ませて彼女がほほ笑んだ。
「えへへ、懐かしいなぁ……撫でられちゃった……」
「気恥ずかしくて滅多に撫でなかったもんな、昔は」
「良かった、これで安心して……眠れそう……」
「ああ、おやすみ月夜」
はっきりと「月夜」と呼んだ瞬間、言葉はなかったが彼女の瞳が驚きで見開いたのが十分わかった。
頑なに名前を呼ばなかったことを今さらになって悔やむ、俺はただ怖かっただけだ。 妹と認める事で、大事な家族を二度も失うことが。
「えへへ……嬉しい、嬉しいなぁ……そっか、私……」
「ああ、お前は月夜だよ。 あとは兄ちゃんがなんとかするからさ、ゆっくりお休み」
月夜の瞳から冷たい雫が流れる。
そしてそれが合図だったかのように、ひび割れた彼女の身体は一瞬にして砕け散る。
後に残ったのは氷の欠片と、透き通るような空色の魔石だけだ。
「悪いな、ラピリス。 待たせちまって」
「…………いいえ、気にしてませんよ」
欠片の山から魔石を拾い上げ、両の手で包み込む。
元々完全な体ではなかったせいか、もはや賢者の石と呼べるほどの力すら残っていないが、これは月夜が唯一この世に遺したものに違いはない。
「ごめんな、俺は兄貴失格だよ。 最期にまた妹を泣かせてしまったんだ」
いつもこうだ。 理想ばかりを口にして、手を伸ばしても届かない。
結局掴めたものは、命だったものの残骸ばかりだ。
「俺はただ、お前にも幸せになってほしかったのになあ……っ」
潰さぬように握りしめた二つの魔石は、無感情な温度を掌に返すばかりだった。




