覚え書き・ニーチェと『弱者』
創作のネタのネタ
弱者とは何か。
19世紀ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ
(1844~1900)が
しばしば軽蔑的な意味合いで用いる『弱者』とは
貧乏人や病人そのものを指す言葉ではありません。
ニーチェの言う『弱者』は
特定の個人、組織、団体、党派、職業、階級、
人種、共同体、コミュニティを指す言葉では
ありません。
弱者とは人間の質であり『精神の規定』です。
肉体的な弱さや社会的立場の弱さが
直接人間としての弱さを意味するのではなく
精神が弱さに同意した時
人間は弱い人間、病的な人間になるのです。
言い換えれば厳しい現実と戦う人間が
自らに同情した時、
本質的な弱者になってしまうということです。
デマゴーグ(民衆煽動家、大衆迎合主義者)、
大衆運動、カルト、
それらはまさに同情を煽り
嫉妬や復讐へ向かわせる能力を持つ
という共通点において同類です。
(弱さとは肉体的なもの、
地上的なものに由来するもので、
同情の思想(ニーチェ曰く『奴隷道徳』)は
肉体や地上それ自体を否定し拒絶することで
弱さを否定したい人々から絶大な支持を得る。)
似た言い方を繰り返すようですが
人間の質の問題はあらゆる
個人、団体、地域、世代、
性別、役職や階級において
普遍的に存在する問題です。なので例えば
「貧乏だから人間として質が悪い」
「貧しい者の方が優れている」
とか、
「高給取りだから質が良い」
「儲けている奴は悪い奴だ」
とかと考えるのは誤解に基づく考えです。
人間の質はどのように表れるか、
そのことを貧乏な人間と豊かな人間との関係を
例に取って考えてみますと、
まず貧困と困窮に束縛された貧乏人がいる。
その内大多数の貧乏人は
知ではなく仕事のことを考える。
忙殺されていることを理由に
知を高めることを怠ってしまう。そして
「無知は富と結びついた時
初めて人間の品位を落とす」
(ショーペンハウアー『読書について』)。
その上で大事になってくるのは
「富と暇の活用を怠けている点を
咎めるべきである」(同上)
ということです。
しかし、
大抵の貧乏人が抱いている
金持ちへの非難の主な内容は
金持ちが富と暇を所有していることについての
嫉妬と憎悪、怨恨です。
一方、
大抵の金持ちは現状富と暇を活用できていないのに
よりたくさんのお金を欲しがります。
自分に本来必要な分以上のお金を求めるのは
もちろん虚栄と自尊心を守るためです。
両者とも富と暇の価値を否定している、
ないがしろにしている、
その価値を理解できないでいる
という点において同類と言えます。
彼ら低級な人間の貧しい方は
ひたすら復讐感情を蓄え、
人生や世の中を変えるためと言って
愚劣な破壊活動や強奪行為に加担します。
富める方はただただ快楽に浸り
欲望や欲求を満たすことばかり考えます。
自分の生活に自信を持ち、大満足しており、
親分でサル山の大将でスポーツマンで腕力家で
弱いものいじめです。
弱者と強者は上下関係を意味するものではない。
弱者は支配されているから弱者なのではない。
弱者が強者を支配していることは普通にあり得るのです。
「逆らったらまたいじめられるよ」とか
「あなたにはどうせ無理だよ、何もできないよ」とか
「自分たちの仲間にならないと不幸になるぞ」とか
言うような、
弱さを克服しようとする高貴な人間が
弱さへの同調と連帯を迫る卑小な人間の
群れに圧倒される、
こうした悲劇がどこの世界でも見られる。
しかし弱者は何を支配しようと、
いくら豊かになろうと強者にはならない。
豚がいくら肥えて大きくなろうと豚のままであり、
猛禽や獅子にはならないのと同じことです。
こうした人間の弱者化、人間の質の低下は
家庭事情から仕事、生産と消費、教育、政治の場など
ありとあらゆる生活空間で有害な影響を発揮します。
教育の質の低下、文化の質の低下、政治の質の低下、
倫理の失墜、法の失墜、道徳の失墜、信用の失墜、
伝統の解体、権威の解体、歴史の解体、国家の解体、
弱者の暴走、同情の暴走、多感と過敏、感情の暴走、
大衆の暴走、権利の暴走、権力の暴走、
詐欺師の勝利、強盗の勝利、テロリストの勝利、
多数派の勝利、独裁者の勝利!
意思表示が求められる場所、価値判断がなされる場所、
人間が存在する場所、
その全ての場所で人間の質の低下は問題になり得ます。
ニーチェは『肉体』、つまり
人間一人一人が抱え、直面する現実に対しての
態度、姿勢、向き合い方によって
人間の質が決まると説き、その人間の質には大まかに
三つの形態があると説明します。
その三つというのが
『弱者』、
『強者』、
そして『超人』です。