女は眼で殺す
打ち所が悪かった。例え女性の拳でも全体重を乗せた拳なら相当痛い。さらにそれが顎にクリーンヒットしたとなると倒れ伏せる以外ないだろう。
時間的にそんなにも倒れていたとは思わないがどうにも違和感……と言うより腕がビニール紐で縛られていた。
「……まあ外れないか」
「動くな。変態」
掛けられた声は上から聞こえる。と言うより陰ってる?
横向きの体を上に向けるとビニール紐を手に持つ女の子に見下ろされていたけど、女の子は一瞬で俺から離れた。
「ああ。悪い。ちょっと変な体勢だったから立ち上がらせてもらう」
「だから動くなって! 動くな! 立ち上がるな!」
少女のドギツイ制止の言葉を無視してふらつきながらも立ち上がる。二本の足がまっすぐ伸びたと思えばまだまだおぼつかない。拙いダンスのような足取りで後ろにトタタッとよろめく。
だが倒れはしない。倒れる前に勉強机が支えになってくれたからだ。後ろに縛られた手が机の縁を掴んで倒れないようにしたのだ。
「ふらついたけど……大丈夫なんて聞かないわよ。じゃあもう一回倒れてくれない。次は足を縛って完全に動けないようにしてやる」
「待ってくれ。誤解だ。許してほしいなんて言わないけど俺も騙されたんだ、いのうえれん」
「いのうえれん?」
「この机に置いてあるノートに書いてある。いのうえれん、でいいのか?」
「……名乗るつもりはないけどみんな最初はそう読む。けど違う! い・の・か・み・こ・い。私は井ノ上恋。わかった?」
なるほど、そういう読み方か。ちょっと粗暴で、言動も荒々しいところもあるけど。彼女曰く変態にもきちんと名乗ってくれる辺りいい子のようだ。
「先ほどから君は俺を変態だと罵るが、まあ現状を見たらそう思っても仕方がない。ただこちらとて理由はある。それを説明したい。決して君に害を与えるつもりはない。だからこの紐を解いてほしい」
「そのかしこまった口調ムカつくね。解いてほしい? へったくれ述べて逃げるつもり? 言っとくけど害を与えるも何もさっきは油断しただけ。あんな無様なことは二度とない」
「強気だな。眼から感じられたが君は自分の強さを疑わない。だが弱さがないわけじゃない。弱さを強さで覆っているように感じられる」
「だーかーらー。その気色悪い悟った仙人のような鳥肌が立つ意味の分かんない物言いやめて! 言っとくけどそんなこと言ったって紐は解かない」
「だろうな。頼んでおいてなんだけど君は決して解かないだろう。それなら自分で解くまでだ」
解くと言うよりは切るだけど。腕を縛っていたビニール紐ははらりと音もなく床に落ちる。解かれた手首を回して『凝り』を解す。
「な、どうやって紐を解いたの!」
「ハサミ」
彼女に差し出したのはハサミだ。先ほどよろめいて机に手をかけたときにノートの名前を確認するのと一緒にペン立てに立てかけてあったハサミを抜き取っておいた。縛られていたのが腰だったのが幸いだった。彼女に気付かれずに抜き取れて、気付かれずに紐を切ることができた。
「ビニール紐だから切りやすいのもあったし、拘束で相手を縛るなら手首じゃなくて親指の方が効果的だって待って。身構えないで。何もしないって」
「信用できない」
「さっきも言ったけど俺も騙されたんだ。俺はここが新しい住居で、連れてこられた場所は男子校だと聞かされていたんだ」
「男子校? ハッ! じゃあ何? 男子校だから私に男だって聞いたわけ? そのボケ。他で使わない方がいいわね」
「男子校だから聞いたんじゃあない。俺が君を男だと聞いた理由はただ一点。眼だ」
「眼だぁ?」
「どこからどう見ても君は女の子だけど、その眼だけ違和感がある。おかしいからこそ、君に近寄ってあんなことをしてしまったんだ。悪かった」
「……バッッッッカじゃないの! 何? 眼だけ男に見えたからあんなことしたってわけ? 第一ここは男子校じゃなくて女子高! 鶚女学園。アンタの言う男なんてものは最初から」
「女学園だと!」
そのワードで意識の転換を迎える。先ほどのように無意識レベルで彼女に歩み寄りその肩を掴みにかかる
「な、何? 触るな!」
「すまん! だけどここは女学園なのか!? 女子高なのか!?」
「それ以外にあるわけないでしょ!」
「マズい。マズいマズい! あのクソジジイ! 待てよ。と言うことは」
耳を澄ます……だがもう遅い。音が迫ってきていた。
「……この建物の住人は何人?」
「答えるわけないじゃない」
「ここはペンションだ。この部屋が二階の最奥で一階はほとんど共同の場だったはず。二階に部屋は三つ。残りの部屋が一人部屋でもならあと二人はいる。足音は……二人。階段を上がる音!」
逃げ道は……後ろにしか無い
ベッドのそばの窓を開け、豪快に足を掛けて飛び降りることを画策する。
けど、なんでこの子が……恋が服を引っ張って邪魔をするんだ!
「離すんだ! 君まで下に落ちたいのか!」
「それはこっちのセリフよ! ここは二階よ! いくら変態でも目の前で飛び降りようとしてるのを黙って見てられるもんですか! アンタも追い詰められて飛び降りようなんてアホな考え持ってんじゃ無いわよ!」
「関係無いだろ! いいから離すんだ! 音がさらに近づいてきた! もう扉の目の前!」
このまま無理に飛び降りようものなら恋まで巻き込むことになる。さすがに二人分の体重を受け止めるのは不可能。惨事は必至だ。
仕方ない。ここは適当にやり過ごそう。
「……アンタ、何でそんなに力一杯眼を閉じてるわけ?」
「応急処置だ」
眼を閉じてるからわからないけど恐らく彼女は首をかしげ、その表情は何を言っているかわからないを表した怪訝なものだろう。
だけど鳴海にとっては死活問題だ。死活問題だからこそ眼を閉じているのだ。
「どーしたんスかレンレン。さっきから妙なトラブルの匂いが……くんかー! ん?」
「その通りよ千種。今とーっても面倒臭いトラブルに巻き込まれてるの。今すぐ風紀取締係に連絡入れて。こいつを学園から追い出す」
「あらー男の子。なんでいるんスかねぇ……ハッ! 奏チン出て行きましょう。きっとレンレンはこの人と情事に移行しようとしてるみたいっスので」
「情……事? あれ?」
「千種ぁ! 奏に変なこと吹き込んでるんじゃないわよ! と言うより男がいるのよ! もっとこう、ギャーギャー言うべきじゃ」
「鳴……海?」
部屋に増えた登場人物の一人が名前を言った。俺のことを知っているのかと思いましたが、この声に聞き覚えがある。
つい最近まで聞いていた親友の声だ。
「奏……奏なのか?」
恐る恐る眼を開ける。開かれた視界に入り込んだのは新しい登場人物二人。
一人は身長が高めのスラっとした大きい白衣を身に纏った両結びで眼が見えないほどの大きく、厚い瓶底のメガネをした科学者的風貌。
見た目で科学者みたいと思える分ものすごく胡散臭い。
そしてもう一人。エセ科学者とは対象的に小さな体躯に青い髪でどこかしらしどろもどろと頼りなさが感じられる少女。前髪は眼を覆い隠すほど長く、それも自身のなさの表れが見て取れる。
その小さな体躯の少女こそが鳴海の名前を言ったのだ。
「何で鳴海がここに? うわっ」
ついこのあいだの出来事なのにこんなにも懐かしく感じるなんて。こうして脇から持ち上げるのももうできないと思っていた。
「奏ェ! 卒業式以来だな! お互いどこの学校に行くか言ってなかったけど、まさかここで再会できるとは! 感無量だ!」
「鳴海……持ち上げないで」
「俺がここにいるのはジジイに騙されて連れてこられたからなんだ。さっき井上恋が風紀取締係に連絡とか言ってたけど、連絡したらここから出られるのか? なら今すぐに頼む!」
「なら……下ろして」
「もう少しだけ! もう少しだけお前の重みを感じて、」
「えいっ」
何のためらいもないピースサインからの目潰し。
「うごぉあ! 目潰しは反則打ァ!」
「ここにいるなら……鳴海はむしろ眼を潰したほうがいい……友達の前で……持ち上げないで……恥ずかしい」
「なるほど。俺のためを思って眼を潰してくれたのか。ありがとう」
「なになに〜? このお方、レンレンと情事を働こうとしてたんじゃなくて奏チンのボーイフレーンドって事なんスか? あ、僕は植村千種っスのでお見知り置き〜」
「……ああ」
眼の痛みが引いてきた。馴れ馴れしく肩を組んでくる千種とかいうやつ……デカイな。こいつについての言及は、
「ちょっと待って。ちょっと待ちなさいよアンタらぁ! 何? 何でそんなに親しそうにしてんの? ここは鶚女学園よ。男は完全禁制なのになにそんなに親しそうに話してんの! 二人とも。そいつは変態だから近寄っちゃダメ!」
「知ってる……鳴海はすごい変態……しかも自覚がない分……タチが悪い」
「まあいきなり奏チンを高い高いしてる時点でお察しっスので」
辛辣。だが的を射ている。
「だったら離れなさい! そいつがここにどうやってきたかはともかく、何が目的できたかわかってないこの状況。少なくともかく私たち三人で拘束した方が」
『目的ならばウチが説明しよう!』
室内に届いた大声で皆の意識があるところに向いた。
この建物は吹き抜けだ。今の声は一階のリビングから届いた声だ。
『そこにいるのはわかっている朱鷺神鳴海! 安心したまえウチは全てを知っている。さぁ、みんなと一緒に降りてくるんだ!』
「この声……」
「どうやら家長殿がいるみたいっスねぇ」
「どう……する? 私たちも……来いって」
「行くに決まってるでしょ。日向さんがこの変態のこと知ってるみたいだし、文句の一つでも言ってやる。ほら、行くわよ変態」
「ヤダ」
どうにも嫌な予感がする。
「ヤダじゃなくて、アンタが当事者なんだからアンタが行かなくてどうするの」
「そこ吹き抜けだろ。会話ならそこでする」
「コミ症患ってんの? そんな言い訳しないで一緒に来る!」
「ヤダ」
「鳴海……わがまま言わないで……行こ」
「わかった」
そそくさと奏と一緒に部屋を出る足取りは完全に親鳥の後をつける子供のカルガモだ。
後ろの納得も釈然もできないつぶやきを聞きながら階段を降りて開けた空間、暖炉、テレビなどが取り揃えられたリビングに踏み込む。
テレビに仁王立ちで立っているのは先ほどの声の主だろう。
我ここにありと妙な存在感を放つ、笑顔なのかそうなのかわからない細いキツネ目の……年上のちょっと腹に何か一つを抱いているような……年上の女性だ。
「初めましてだ鳴海君! 私は稲城日向! 君のことは学園長から聞いている! このイレギュラーめ!」
友愛とした握手を求めてくる。そのボクシングのクリンチのような擦り寄りに戸惑いながらも握手に応じる。
「そして開眼!」
握手と同時にその細い眼がスイッチ一つで切り替わる蛍光灯のごとく内側の眼球がギョロリと露わになる。
油断したと思った時にはもう遅い。
視界を通して体に二匹の蛇が侵入した。眼が得た情報は蛇として脳に到達し、そこで初めて体が警告を送る。
体内に危険が侵入した。今すぐ殺さなくてはならない。
脳は蛇を殺そうと毒を分泌する。しかしその毒が殺すのは蛇だけではない。己自身すら殺しかねない強力な毒素。体の自由は奪われ、まるで蛇に睨まれたカエルのように……体が石に変わっていくように動かなくなっていく。
「どうしたのよコイツ。何でいきなり固まったの?」
「す、ストップ……! 家長……!」
家長、稲城日向で固定されていた視界が奏の決死のタックルにより開かれる。
体内の蛇がからだのどこかしらから抜き取られるような感覚。それと同時に体力も大量に抜き取られ体はバランスを失ったジェンガのごとく崩れ落ちる。
「ご、おぉ……ア、ナタは俺の事情を知ってるって言った。俺を殺す気か、日向ぁ!」
「まさか。本当に君の体質が本当かどうか見ただけだ! 知らない子もいるみたいだしな! さてみんな。彼は誰か。知らない子もいるから答えよう! 彼は朱鷺神鳴海。今日この時点を持って『炎円の家』の一員となる! みんな、よろしくしてやってくれ!」
高々と宣言される決定事項に皆が皆声を出せずに惚けている。
ふざけるな。この家の一員だと。異性との何時も一緒の生活なんて精神的に持つはずがない。
俺にとって異性の眼は、体を石に変える『ゴルゴンの眼』だ。