心の青さ、人の青さ
小学校の頃、僕はひどくいじめられていた。
当然のように、メンバーも大して変わらない中学校の頃も。
「いじめる方は悪いが、いじめられる方にも原因がある」
いつもいつも聞かされていた。
何が原因なんだろう。
なぜいじめられるんだろう。
僕は何をしたんだろう。
いつも自分に問うては、いつも答えは出なかった。
「何もしなかったからいじめられたんじゃない?」
そんな言葉も飽きるほど浴びた。
何もしなかったわけではない。
嫌だという意思表示も、先生に助けも求めもした。
しかし、それは全て笑い声という答えで返ってきた。
当時、腕っ節は強かったほうだと思う。
いじめっ子と比べても身体は大きかった。
自分の力が強いことも分かってた。
その分、僕は暴力に訴えることは当然出来なかった。
暴力に訴えることがどれだけ関係ない人を傷つけるかも分かっていた。
自分が暴力を振るうことで相手がどれほどの怪我をするかも分かっていた。
自分が暴力を振るうことで悲しむ人がいることも分かっていた。
ある時、それを僕は打ち明けた。
当時、唯一心を許せた友人に。
返ってきた言葉は
「可哀想」
だった。
僕が欲しかった言葉とは違った。
当然だ。
友人は僕とは違う人間だから。
僕の心の内が分かるはずもない。
僕が掛けてほしい言葉が分かるはずもない。
なのにも関わらず、僕は一種の”失望”を覚えた。
喪失感とも表現できるかもしれない。
そこから誰も信じられなくなっていった。
自分の殻に閉じこもり、下ばかり向いて歩いていた。
いじめっこからも逃げ、陽の光からも逃げ、影ばかりを選んできた。
同情と同意は違う。
当時の僕はきっと同意して欲しかったのだろう。
当時の僕は「よく耐えた」「よく頑張った」と褒めてもらいたかったのだろう。
ずっと一人だけの世界に生きている気分だった。
ずっと暗い世界を歩いている気分だった。
ずっと何も信じられず、ずっと孤独であれば良いと思っていた。
同情は人のためにはならない。
人の為、それは”偽”にもなる。
きっと同情は”偽”モノなのかもしれない。
同情は優しさではない。
同情は自身のためのものなのかもしれない。
あなたのその言葉は同情ですか?同意ですか?
その答えは、きっと本当の”人の為”になる・・・かもしれない。