奇襲
それは突然だったまるで世界がずれ込むような感覚、その余りにも異様な感覚に吐き気を催し連夜は目を覚ました。
「なんだ……これ」
部屋の窓を強風がノックする。ガタガタと窓枠を揺らすその風には黒い色に染まっていた。
「まさか――!」
次の瞬間黒い風はその暴虐の牙を向いた。暴風と化したそれは家の壁を削り、窓を粉々に粉砕した。
狭い部屋の中へとなだれ込んだその風は連夜へと襲いかかる。
無意味とは知りながらも連夜は無意識に腕で顔を庇った。だが、黒い風は連夜へと届く前にその脅威を霧散させる。
「そうか、タリスマン」
緊急時にはその身を守ると言われたタリスマンが連夜のすぐ脇でほのかに光を放っていた。連夜はそれを引っつかみ部屋を飛び出した。
体制を崩しながらも廊下を駆け抜ける連夜を追いかけるように黒い風が襲いかかるも、そのことごとくがその体を散らす。
玄関を抜け、連夜は裸足のまま外界へと駆け出した。
「これは――っ」
十六夜家の近所一帯を覆うほどの膨大な量の黒い風、これは以前見たものとまるで規模が違う、もはや空間そのものが黒く染まっているように見える程だ。
「逃げないと……」
だが、どこへ? これほどの密度の風が覆っているのだ、逃げ場など無に等しいのではないか……? だが、結歌は異変があればすぐに駆けつけると言った。彼女が到着するまでの時間をなんとか凌げばあるいは……。
「これは驚いた」
唐突に響いた声に連夜は咄嗟に後ろを振り返る。
「一般人にしては多い魔力を察知して来てみれば、これほどとは……」
声の主はローブのような黒いロングコートにフードを目深にかぶった奇妙な男だった。
「誰だ……お前」
「おっと、失礼をした。だが……私が名乗ったところで君には関係のないことだろう? そのような下らない問答よりも……どうやら君は優秀な魔術源を持っているようだ」
フードに隠れて顔の大部分が見えないが、唯一見える口が三日月のように不気味な弧を描いた。
「その魔力……私に寄越し給え」
一瞬フードに隠れているはずの鋭い眼光に貫かれた。
次の瞬間無数の風の刃が連夜へと殺到する。咄嗟に右へと回避のために身を投げ出したが、いくつかの脅威は連夜の体を捉えたかに見えた。だが、やはりそれらは連夜の体を傷つけることなく掻き消えてしまう。だが、同時に複数の風をかき消したタリスマンは限界をむかえたようで連夜の手の中で儚く砕け散った。
「ほぅ? 君は何らかの自衛の手段を持っていようだね。……だが、それも失ってしまった、と。これで君は身を守る術を失ったわけだ……どうだね? おとなしくしてくれると私は非常に助かるのだがね。私としてもあの小娘に気取られる前に事を済ませてしまいたい」
小娘、おそらく結歌のことだろうか、だが、彼女はまだ来ない。このままでは連夜の命はこの男の前に散らされることとなるだろう。
「さぁそのまま動かないでいてもらおうか」
男が連夜へと足を踏み出した。
『死』
連夜の脳裏にその言葉が連想される。
このままでは死ぬ。目の前の男に殺される。
この世界へと違和感を抱えたまま、その正体を確かめることなく?
何故? そんなことは決まりきっている、今の連夜には身を守る術がない。
目の前の男を退けるだけの力がない。
力を行使するための知識がない。
ならば諦めるのか?
「――ふざけるな」
――否、そのようなことできようはずがない。
無様だろうと、みっともなかろうと、最後まで足掻くべきだ。
「……抵抗しようというのかね? それは君の勝手だが、あまりこちらの手を煩わ
せないで欲しいものだ」
男は無感情に、そして確実に連夜の命を刈り取ることにしたのだろう。一筋の風がその身を黒く染め連夜の首へと牙をむいた。
逃げた所で無駄、それは理解している。
ならば目の前の男を打倒するべき。
だがそのようなことは不可能、自らにはそのような手段などない。
――否。
手段ならばある、自らには魔術源があるのだ。
だが、それを行使する方法を知らない。
――否。
自らはその手段を知っている。
何故、理由など今は必要ない、手段があり、知識もある。ならば後は行使するのみ。
長年抱えていた違和感が消えていく、同時に自らの体を巡る魔力と、その核たる魔術源を知覚した。
魔術源より供給される魔力を右腕へと集める。熱を持ったような痛みを感じるが今はそれを無視する。
「――っぁあああああ!」
目の前へと迫っていた黒い風、それを渾身の力を持って殴りつけた。
風は耐え切れずその身を2つに分断しそれぞれが連夜の脇を通りすぎ背後で消滅した。
「何故……」
驚愕したかのように男が呟くが、それに言葉を返すことなく連夜は男へめがけ駆け出した。
右腕はまるで熱湯をかぶったかのような痛み、
これ以上は無理だと悲鳴をあげている。
だが、連夜自身はこれ以上ないくらいの高揚感を感じていた。
今ならあの男を打倒できる、と。
「無駄なことを」
だが男は怯むことなく反撃に転じた。
連夜を囲むように四方から黒い風が襲いかかる。今連夜の武器はこの右腕のみ、それだけではこの数を防ぐことなど不可能だろう。無駄だとは知りつつも右腕を盾として前に差し出す。だが、これでは一瞬の後には連夜の体は両断されてしまう。思わず目を閉じ、痛みに備えるが。どれほど経っても恐れていた事態は訪れない。
恐る恐る目を開いてみれば、風に黒髪をなびかせた、見覚えのある背中があった。
「――無茶をして……下手をすれば死んでましたよ、貴方」
魔術師、望月結歌。それは黒い風など自らの前には無力であると言わんばかりに悠然とした立ち姿であった。
「間に合ってしまったか、望月の当主よ……。結界まで張って貴女を引き離したというのに」
黒い風を従えるこの男は、苦々しげに口を開いた。
「あのような結界は私の前には無力です。あって無いようなもの。その程度の腕で私を遠ざけようとするなど不可能です」
そう口にした結歌の口ぶりは自身に満ち溢れていた。
そんなことよりも、と結歌は言葉を続ける。
「貴方が今回の騒動の黒幕ですか? 魔術師」
結歌が男に問いを投げかける。
「もし、そうだと言ったら」
悠然と構えた男には、何故だか余裕が見える。
「この場で貴方を捕らえるか、抹消します」
結歌のその言葉に男は笑みを深くした。
「それはやめたほうがいい、この結界内は私の領域だ。口惜しいが貴女には力及ばないが、そこの少年なら話は別だろう? 私を仕留めるのは構わないが……確実の彼を道連れにしてみせよう」
つまりこの男は連夜を実質的に人質に取ることで自らの安全を図ろうというのだ。自らの無力感に連夜は歯噛みする。
「……私がそのような脅しに屈するように見えるのですか」
「あぁ、見える。貴女は一見冷たいように見えてその実、情に厚い。――そうだろう?」
「そのような戯言を」
憤ったように結歌が言葉を発するが、男の余裕は崩れない。
「なら、試してみるといい」
二人のにらみ合いは続く。そして数秒の後、結歌がふ、と力を抜いた。
「……いいでしょう。ですが、次はありません」
「そうだな、善処するとしよう」
周囲を吹きまわる黒い風が男の周囲に集まり男のその姿を覆い隠す。そしてその密度は徐々に薄くなり、風が晴れた時には男の姿も、黒い風もなくなっていた。
「……大丈夫ですか」
男の姿が消え、黒い風が完全に収まったことを確認するとようやく結歌は警戒を解き、連夜へと振り返った。
「あぁ、だいじょうっ――」
その瞬間、全てが戻ってきた。
「十六夜君? 十六夜君、どうかしたのですか」
戸惑ったように結歌が顔を覗き込んでくるが連夜はそれどころではなかった。
――そんな、ありえない、いや、だがもしそうだとしたら全てが納得が行く。
そう、この違和感も魔術源も全てが……。
「十六夜君――!」
「お前……結歌か?」