邂逅
望月結歌。彼女のことはよく覚えていた。その人並み外れた美貌もさることながら、彼女は交友関係も広く、人望も厚かった。そんな彼女だが、何故だか一人の少年のことだけは毛虫のごとく嫌っていたからだ。
そもそも件の少年こと十六夜連夜には彼女、結歌に嫌われるようなことをした覚えなど微塵もなかった。それどころか他人といざこざを起こすなどといったことは連夜の最も苦手とすることであり、この高校生活とて、今までと同じように波風を立てずに無難に過ごすつもりでいたのだ。友人に言わせるところの人畜無害、なるほど連夜ほどこの言葉の似合う者もそうはいないだろう。であるからして当の本人である連夜には、何故結歌に嫌われているか全くもって見当がつかないのである。
それに、連夜当人に原因があるとは思えない。彼女、望月結歌は最初からそうだったのだから。
連夜は結歌のことを随分と昔から知っていた。と、いうのも、結歌は連夜と同じ中学校の出身である。さらに言うならば同じ小学校の出身でもあった。だが一度として同じクラスになったことはなく、言葉を交わしたことなどありはしなかった。結歌はいつも人気者だった。連夜の知る結歌は、周りにいつも人が絶えることはなく、それと同時に笑顔が絶えることもなかった。容姿端麗、才色兼備。かといって優等生なわけでもなく、少しばかり規則を破ることもある。そんな少女だった。
当の連夜といえば、華やかな結歌と、その周りの人々を遠巻きに見る通行人Aにすぎなかった。
話したこともなければ、親密になるきっかけなどない。結歌は連夜のことなど深く知りはしなかっただろう。いつしか連夜は結歌に憧れに近い恋心を抱きはしたが、ついぞ、その胸の内を誰かに明かすことはなかった。そうして、距離に全くの変化のないまま時は過ぎ、中学校の卒業と、新たな学び舎、高等学校への入学の時期になった。だが連夜にとって幸か不幸か、恋心を抱く相手と同じクラスに配属されたのだ。これは連夜にとってみれば僥倖とも言える事態だろう。同じクラスにさえなれば距離を縮めることなど容易いことだ。
そう、容易なはずであったのだ。
現実は非情なり、何がいけなかったのか連夜は結歌に嫌われていたのだ。それも完膚なきまでに徹底的に。話しかければ無視され、視線すら合わせようとしない。まるでお前など見るに値しないと言わんばかりに顔を背けるのだ。ここまではっきり拒絶の意思を示されれば誰でもわかるだろう、自分は嫌われている、と。
だが、何故そうも嫌うのだろうか、嫌われた当人としては全く身に覚えなどなく、拒絶されるなどたまったものではない。だが理由を聞こうにも、こうも拒絶されていれば聞き出すことなどできようはずがなかった。
「で、理由も聞き出せないままお前はそうして不貞腐れてるっと」
力なく机につっぷした連夜に対し、制服をだらしなく着崩した少年、如月直人は冷たい眼差しを送る。一見軽薄そうに見える直人だが、その実、思慮深い一面を持っているのだ。また友人思いなところもあり、こうしてなんの生産性のない連夜の愚痴に付き合う姿がよく見かけられていた。
「いい加減納得しろよ、お前がこうして愚痴ってても、嫌われてる理由なんか分かりっこねぇし、そもそもそんな気になるんだったら本人に直接訊けっての」
「それができたら苦労してないんだが……」
全くである。直人の容赦ない物言いに僅かばかり顔を持ち上げ反論をする。
訊けないから苦労しているのであって、こうして愚痴をこぼしているのではないか。
「ならさっぱり諦めるんだな、別に望月が積極的に攻撃してくるんじゃなしに、こっちから近づかなきゃいいんじゃねぇか。そういうもんだって納得しちまえ」
またも辛辣な物言いに連夜は再び机に突っ伏した。
それもまた無理な相談であった。諦められないから嫌われている理由が知りたいのであって、嫌われている理由を本人に訊けないからこうして相談を持ちかけているのではないか。
「お前ってホント優柔不断な、案外そういうとこかもしんねぇぞ、嫌われてる理由」
「優柔不断だなんて……別に俺はただ波風立てたくないだけで」
失礼な、とばかりに言い返す連夜だが、その声に力はない。
「だから、そこが優柔不断だっての。お前だって分かってんだろ」
直人の言葉の通り、連夜に対する周囲の評価はその言葉の通りなのだ。本人も薄々気づいてはいる。だが、どうしてだか連夜はこの性格が原因で嫌われているなどと思えなかったのだ。現実逃避、そう言われてしまえばそれまでだが、結歌が連夜を嫌う理由、その本当の意味はもっと深いところにあるように思えてならなかった。
「――あれ? 望月?」
その日夜深くの、連夜は買い置きしているお気に入りのドリンクを切らしていたのに気づき、近くのコンビニまで買いにいこうと外出した時だった。ふと見慣れた人影を見かけたのだ。
その人物はこちらに気づいた素振りはなく、そのまま曲がり角に消えていった。その姿は目下の悩みの原因たる人物である望月結歌であった。
時間は深夜の1時を回っている。そんな時間に女の子一人で出歩くなどあまり褒められたことではない。最近などはこの辺りも物騒な事件が多発しているのだ、用心に越したことはない。
ここはお節介だろうが一つ声をかけるべきかと、連夜は結歌の消えた角に足を向けた。
また無視されるか、はたまた睨みつけられるかされるのだろうな、などと考え、溜息を吐きながら。
そう、声を掛けるべく結歌を追いかけた連夜だが、相手は自分を嫌っている相手である。ましてや連夜は結歌と言葉を交わしたことなど一度たりともないのだ。もう夜も遅いから家に帰れなどと、一体どう伝えるべきか。
声をかける、そう決めたというのに連夜の決意は速くも揺らぎをみせていた。
結局言葉を発する。その簡単な動作すら行うことが出来ずに、着かず離れずの距離で相手に気づかれないように後ろをつけることしかできないでいた。傍から見ればストーカーかと見まごう姿だろう。
結歌はそんな連夜に気づいた素振りは全くなかった。暗闇の支配する夜の町を迷いなく歩いていく。だが、住宅の密集地を抜けた頃、連夜は不安を感じ始めていた。辺りに住宅は少なく、電灯もまばらにあるのみだ。この調子で歩いていけばいずれ町の外れに到達してしまう。
街の外れ、そこには以前、地元の権力者が住んでおり、大層なお屋敷があったそうだが、今は空家になっている。その近辺に住む人は元々多くはなかったそうだが、その権力者が不在になった頃から新しく作られた住宅街に移り住む人が相当数いたそうだ。もともと交通の便も悪く、スーパーやコンビニの類も住宅密集地を挟んで正反対にしかないため、今では寄り付く人はほとんどいない。
そんな場所に一体何の用があるのか。
――まさかここに家があるなんてオチ……ないよな。
やがて結歌はある場所に辿りついた。
公園……人々から忘れられて久しいその場所は、来訪者を拒絶するように冷たい静寂に満ちていた。
「――ここですか」
無感情に呟かれたその声は、離れている連夜の耳にもいやにはっきりと聞こえた。
夜のもたらす暗闇に支配された公園、そこに足を踏み入れた結歌は、寂れた遊具のそのさらに奥、闇夜が覆い隠す領域に視線を投げかけた。まるで何者かがそこに佇んでいることが見えているかのように。
結歌はおもむろにポケットから棒状の何かを取り出すと膝を折った。なにやら地面に何かを書き込んでいるようだが、連夜からはそれが何かを確認することはできなかった。
「――よし、では、始めましょう」
結歌は立ち上がり暗闇のそのさらに奥を見据えた。
「人払い、起動」
小声で発せられたはずのその言葉は、言い様のない力を持って周囲を駆け巡った。
ここにいるべきではない、自分には他に行くところがあったはずだ。
何故だかそんな言葉が連夜の脳内に浮かび、さらに支配せんと鳴り響く。
気を抜けばその言葉の通りにこの場を後にしてしまいそうな、そんな誘惑に思わず連夜は抗った。
何故だかはわからない。ただ、ここで背を向けたら大切な何かを失ったまま生きることになる、そんな気がしたのだ。
「――人間、保護、展開」
結歌がそう呟き足を踏み出した。瞬間、風が爆発した。いやまるでそう思わずにはいられないように、黒い風が爆風もかくやとばかりに吹き荒れた。そのあまりの勢いに正面を向いていられず、顔を背けたほどだ。
そう、そんな風の中を、結歌は全く意に介さず、確かな足取りで暗闇へと歩を進める。
だが、彼女の進む先にはその黒い風が密集している。先ほどの風の爆発の爆心地だ。結歌はそこに目的があるのだろうか、全く足を緩める気配を見せない。
その荒々しい姿を視界にいれた瞬間、連夜は総毛立った。何故先ほどの誘惑に従い逃げなかったのか、そう後悔するほどの恐怖に全身を支配される。しかし、何故だか同時にある種の安心感ともいえる感情を、懐古の念を覚えていた。
かつて持っていた何か、そして失ってしまった何か。時を越えてそれが目の前に現れたかのような、そんな感覚。
そう連夜はこの恐怖を覚えている。知識はなくとも、記憶にはなくとも、この感覚だけは肉体に刻みつけられていた。
結歌が一歩を踏み出すたびに風はそれを拒むように一層激しく吹き荒れる。離れている連夜の下にもその風の余波は届いていた。結歌が受けている風の猛威のほんの何分の一にすぎないそれは、それでいてただ立っていることすらままならない程だ。今でこそただ進行を阻むだけなのだが、結歌の進む先、あの黒い風の密集地に彼女がたどり着いてしまえば、この猛威はどのような変貌を遂げるのだろうか……。
そう、だから結歌がその風の塊に手を伸ばしたとき、思わず声を上げてしまったのだろう。
「――望月! だめだ!」