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いのち

作者: 笹峰霧子

 彼は生きることに絶望していたのか、それとも自分で決めた命の限界を見極め、それまで生きることができたことに満足していたのか。

 

 加奈子が病室に行ったとき、「自分は思うのだけど……」と話しを切り出した。

「もう生きていることもないと思うんだ」

そんなことないでしょ。元気になったらどこへでも連れてってあげるから。しっかり食べてもう一度元気になろうよ。

元気づけようとする妻の加奈子の言葉に彼はこう言った。

「あなたはふしぎなひとだねぇ。こんな自分をまだ生かしておきたいのかね」


 調理係の女性がお盆にのせた夕食を運んで来て、ベッドの上のテーブルに置いた。

「ご飯ですよ。しっかり食べなきゃ死んじゃうよ」そう言いながらいかにもありきたりの患者への言葉を残してすたすたと立ち去った。

 加奈子は彼が死ぬことを望んでいるのに、そういうことを言うのは無駄なことだと思ってきいていた。


 ほら、イ・チ・ゴ……加奈子は家から持って来たイチゴをフォークに刺して彼の目の前にちらつかせた。

「いらない!」不愉快なものを見せられたように顔をそむけた。

これはどうお?今度は調理係が食欲のない彼にわざわざ作ったと思えるプリンを見せた。

「もういい。はやく片付けてくれ!」


 

 加奈子はこういう態度をとる夫に腹を立てていた。

「水が飲みたい、水道の水だよ」

加奈子が自動販売機から買ってきて目の前の台に置いている天然水を飲むことさえ拒んでいる。

加奈子は思った……。こう頑なに食べることを拒んでいるのは、死にたいから自分の意思で食べないように決めているのではないか……と。



 加奈子はもう数年前の或ることを思い出していた。機嫌よくふたりで海岸通りをドライブしていたときのことだ。

ふだん家ではあまり仲睦まじく話しをすることもないけれど、家に篭っている夫に外の景色を見せてあげたいとのはからいで、ときどき海や山へドライブに連れ出していた。

「こうして車の中から遠くを見るのは目に良いなぁ。運転するひとがいて連れてきてもらうからだよな」

そうでしょ。車運転できない奥さんだったらあなたが病気になって運転できなくなったらどこにも行けないものね。

加奈子はここぞとばかり自分の存在をアピールした。

「そうだね、ありがたいことだよ」



 その日は妙にしんみりして加奈子は殊勝な気持になっていた。

ねぇ、わたしみたいなわがままな女と結婚してしんどかったでしょう。もっとあなたに相応しい女性ひとと一緒になってたら幸せだったんじゃないの?


 そうは言いつつも、加奈子は自分の言葉に同意してもらいたいとは思っていなかった。それどころか、おまえと結婚してよかった、という言葉を期待していたのだ。

すると夫は言った。

「苦しいことは神からすれば幸せなことなんだよ。僕はずっとそう思って生きてきた。だから……、僕はこれまでの人生幸せだったよ」


 加奈子は夫の胸の内をきいて、無言の内に傷ついていた。


 わたしのほうこそ、随分辛い思いを我慢して生きてきたのに、何よ!

そのことがあって以来何ごともなかったかのように暮らしてはいたものの、彼の言った言葉は加奈子の脳裏から離れなくなっていた。

 自分は望まれてはいない存在だったのだ。だからいつも心がすれ違ってさびしい思いをしていたんだ。でもきっとこのひとも同じようにさびしい思いをしていたんだろうな……。


 夫はその後一か月の間に水以外口にすることはなかった。点滴は外され退院を勧められた。

 医者の診断はこれで終わりということだったのだろうか。

自分が生き永らえることを諦めたとき、医者も生かすことを止める。


加奈子だけはもう一度元気になって、桜が咲く頃には車に乗せて花見に行くことを夢みていたのだが……。


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