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甘い雪とお菓子の国

作者: 新田 詩乃
掲載日:2026/02/23

友達と喧嘩をした夜、街に白い粉が降った。

最初は灰だと思った。

でも空は燃えていなかったし、匂いもしなかった。

ただ静かに、やわらかく、世界を覆っていった。

サイレンが鳴り、警報が繰り返される。

「外出を控えてください」

「吸い込まないでください」

それでも私は、なぜか逃げるように車を走らせた。

山の方へ。

ここにいてはいけない気がした。


山を越えた瞬間、匂いが変わった。

冷たい夜の空気のはずなのに、甘い。

焼きたてのクッキーみたいな、やさしい匂い。

足元の雪は、さらさらと音を立てて崩れた。

すくって舐めると、溶けた。

砂糖だった。

空は淡い桃色で、雲はゆっくりほどける綿あめ。

遠くに見える家々は、壁がビスケットで、屋根はチョコレート。

窓枠にはアイシングの白い縁取り。

私が一歩踏み出すと、地面はマシュマロみたいに沈んだ。

足跡はすぐにふくらんで、何事もなかったみたいに戻る。

川が流れていた。

黒く光っている。

近づくと、それはチョコレートだった。

とろりと、音もなく流れている。

風が吹くと、粉砂糖がきらきら舞った。

ここには警報もサイレンもない。

誰も怒鳴らない。

誰も傷つかない。

そして、丘の上に立つ人影が見えた。


丘の上に立っていたのは、あの子だった。

砂糖の風の中で、輪郭だけが少し揺れている。

「やっと来たね」

その声はやわらかいのに、どこか遠い。

もう同じ場所には立っていない人の声だった。

私はうまく笑えなかった。

喧嘩のときに投げつけた言葉が、まだ喉の奥に刺さっている。

「ここならね、痛くない」

あの子は言った。

「怒らなくていいし、謝らなくてもいい」

甘い風が頬を撫でる。

チョコレートの川は静かに流れ、

綿あめの雲がちぎれていく。

本当に、ここには棘がない。

私の中のざらざらも、溶けていきそうだった。

「一緒にいようよ」

その言葉は優しかった。

優しすぎて、少しだけ怖かった。

そのとき、ふと、

朝の台所の匂いを思い出した。

味噌汁の湯気。

テレビの小さな音。

私が何も言わなくても、

ただそこにいるだけでいい場所。

親の背中。

少し丸くなった肩。

私がいなくなったら、

あの家はどうなるんだろう。

甘い風の中で、胸の奥だけが重くなる。

「……帰る」

あの子は、少しだけ寂しそうに笑った。

「そっか」

その顔は責めていなかった。

ただ、ここに残る人の顔だった。

私は砂糖を一握り、ポケットに入れた。

振り返らないように山へ向かう。

背中で、あの子の声が溶ける。

「また傷ついたら、来ていいからね」 


山道は、来たときよりも静かだった。

砂糖の雪はいつのまにか消え、

足元にはただのアスファルトが戻っていた。

振り返っても、甘い国は見えない。

あるのは暗い山の輪郭だけ。

車に乗り込み、エンジンをかける。

フロントガラスには何も積もっていない。

まるで最初から、白い粉なんて降っていなかったみたいに。

街へ戻ると、警報は止んでいた。

人々は普通に歩き、コンビニの灯りは明るい。

ニュースも、特別なことは何も言っていない。

夢だったのかもしれない。

そう思いかけたとき、ポケットの中で指先に触れるものがあった。

取り出すと、角砂糖がひとつ。

小さくて、少しだけ溶けかけている。

そっと舐めると、やっぱり甘かった。

家に帰ると、玄関の灯りがついていた。

「遅かったね」

いつもの声。

いつもの匂い。

私は「うん」とだけ答える。

甘くない世界。

でも、ちゃんと温度がある。

靴を脱いで、

砂糖の欠片が落ちないように、そっとポケットを押さえた。

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