甘い雪とお菓子の国
友達と喧嘩をした夜、街に白い粉が降った。
最初は灰だと思った。
でも空は燃えていなかったし、匂いもしなかった。
ただ静かに、やわらかく、世界を覆っていった。
サイレンが鳴り、警報が繰り返される。
「外出を控えてください」
「吸い込まないでください」
それでも私は、なぜか逃げるように車を走らせた。
山の方へ。
ここにいてはいけない気がした。
山を越えた瞬間、匂いが変わった。
冷たい夜の空気のはずなのに、甘い。
焼きたてのクッキーみたいな、やさしい匂い。
足元の雪は、さらさらと音を立てて崩れた。
すくって舐めると、溶けた。
砂糖だった。
空は淡い桃色で、雲はゆっくりほどける綿あめ。
遠くに見える家々は、壁がビスケットで、屋根はチョコレート。
窓枠にはアイシングの白い縁取り。
私が一歩踏み出すと、地面はマシュマロみたいに沈んだ。
足跡はすぐにふくらんで、何事もなかったみたいに戻る。
川が流れていた。
黒く光っている。
近づくと、それはチョコレートだった。
とろりと、音もなく流れている。
風が吹くと、粉砂糖がきらきら舞った。
ここには警報もサイレンもない。
誰も怒鳴らない。
誰も傷つかない。
そして、丘の上に立つ人影が見えた。
丘の上に立っていたのは、あの子だった。
砂糖の風の中で、輪郭だけが少し揺れている。
「やっと来たね」
その声はやわらかいのに、どこか遠い。
もう同じ場所には立っていない人の声だった。
私はうまく笑えなかった。
喧嘩のときに投げつけた言葉が、まだ喉の奥に刺さっている。
「ここならね、痛くない」
あの子は言った。
「怒らなくていいし、謝らなくてもいい」
甘い風が頬を撫でる。
チョコレートの川は静かに流れ、
綿あめの雲がちぎれていく。
本当に、ここには棘がない。
私の中のざらざらも、溶けていきそうだった。
「一緒にいようよ」
その言葉は優しかった。
優しすぎて、少しだけ怖かった。
そのとき、ふと、
朝の台所の匂いを思い出した。
味噌汁の湯気。
テレビの小さな音。
私が何も言わなくても、
ただそこにいるだけでいい場所。
親の背中。
少し丸くなった肩。
私がいなくなったら、
あの家はどうなるんだろう。
甘い風の中で、胸の奥だけが重くなる。
「……帰る」
あの子は、少しだけ寂しそうに笑った。
「そっか」
その顔は責めていなかった。
ただ、ここに残る人の顔だった。
私は砂糖を一握り、ポケットに入れた。
振り返らないように山へ向かう。
背中で、あの子の声が溶ける。
「また傷ついたら、来ていいからね」
山道は、来たときよりも静かだった。
砂糖の雪はいつのまにか消え、
足元にはただのアスファルトが戻っていた。
振り返っても、甘い国は見えない。
あるのは暗い山の輪郭だけ。
車に乗り込み、エンジンをかける。
フロントガラスには何も積もっていない。
まるで最初から、白い粉なんて降っていなかったみたいに。
街へ戻ると、警報は止んでいた。
人々は普通に歩き、コンビニの灯りは明るい。
ニュースも、特別なことは何も言っていない。
夢だったのかもしれない。
そう思いかけたとき、ポケットの中で指先に触れるものがあった。
取り出すと、角砂糖がひとつ。
小さくて、少しだけ溶けかけている。
そっと舐めると、やっぱり甘かった。
家に帰ると、玄関の灯りがついていた。
「遅かったね」
いつもの声。
いつもの匂い。
私は「うん」とだけ答える。
甘くない世界。
でも、ちゃんと温度がある。
靴を脱いで、
砂糖の欠片が落ちないように、そっとポケットを押さえた。




