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雨音のカノン

作者: 秋初夏生

 雨が窓を叩いていた。しつこいリズムで、胸の奥を乱す。


 午後の練習室は、不自然なほど静かだった。黒いグランドピアノの蓋が灰色の光を反射し、机には開きっぱなしの楽譜が一冊。


 私--水瀬美憂(みなせみゆ)は、鍵盤の前で固まったまま、指も心も動けなかった。


 雨が強まるたびに、あの日の失敗が蘇る。

 舞台で指が止まり、客席の失笑に押し潰され、逃げ出した夜。


 あれ以来、雨は私にとって呪いの音になった。


 ◇


「美憂?」


 声に肩が跳ねる。振り返ると、(れん)さんが立っていた。

 三歳年上の大学院生。肩から下げた黒いヴァイオリンケースを机に置き、静かに息を整える。


「まだ残ってたんだな。雨、これからもっと強くなるらしい」


 視線を落とし、少し間を置いて続ける。

「……コンクール、辞退したって本当か?」


 私は唇を噛み、うなずいた。

「私、もう……舞台には立てません」


 廉さんは答えず、ただ留め金を外す音だけが響いた。


「まだ、あの日が君を止めてるのか」


 責める響きのない声。

 私はうつむき、小さく答える。

「雨を聞くと、体が震えるんです。あの時の笑い声が蘇って」


 廉さんは弓を取り出し、弦を軽く弾いた。

「気晴らしに、カノンを弾いてみないか。最初の日も雨だったろ」


 記憶がよみがえる。

 初めて彼と音を合わせた日。土砂降りの中、鍵盤に触れたとき、ヴァイオリンが導いてくれた。

 音が重なった瞬間、怖さより楽しさが勝った。


 私は深く息を吸い、指を鍵盤に置いた。


 最初の和音が響く。湿った空気を切り裂き、波紋のように広がる。

 すぐにヴァイオリンが重なり、旋律は追いかけ合った。


 三小節目で指がもつれる。胸が凍り、呼吸が乱れる。

 その瞬間、雷鳴が轟いた。


 部屋を揺らす轟音に、私は手を止める。肩が震えた。


 けれど顔を上げると、廉さんと目が合った。

 彼の表情は穏やかで、その静かな強さに、私は支えられた。


 恐怖は、音に変えられる。

 そう思えた。


 再び指を落とす。旋律は勢いを増し、雨音すら伴奏に変わる。


 ヴァイオリンは寄り添い、私の震えを抱きとめる。

 それは修正ではなく、共に鳴らす音だった。


 繰り返す旋律に、胸の奥に眠っていた勇気が重なっていく。

 私はまだ弾ける。雨の中でも。


 廉さんの音は、時に前を行き、時に後ろから支える。

 それはまるで、立ち上がるための手のようだった。


 クライマックス。

 私は全身で鍵盤を叩く。

 雷鳴と雨のざわめきに負けないほどの音が、部屋を満たす。


 最後の和音は、まるで再び歩き出す自分自身への証のようだった。


 ◇


 演奏が終わり、静寂が訪れる。

 雨は小降りになり、余韻のように滴が音を刻んだ。


 廉さんは近づき、私の指先を軽く握った。

 言葉はいらなかった。その温もりが「大丈夫だ」と伝えていた。


 帰り道。ひとつの傘に入り、濡れた道を歩く。

 街灯が水たまりに揺れ、私たちの足音が自然にそろう。


 --まるで、まだ続いているカノンの変奏のように。


 私は笑った。

 もう雨音は怖くない。胸に残るのは、再び奏でる力だった。

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