戦火に消えた力士 2 焦土の殉教者 松浦潟 達也
体格に恵まれず、努力と根性で土俵を沸かせる名勝負を繰り広げた豊島に比べると、体格と素質に恵まれながら、ドライな性格が災いしてか不完全燃焼に終わった松浦潟は対照的な力士と言えるかもしれない。奇しくも入幕後六連勝と快進撃を続けた豊島に初めて土をつけたのが松浦潟である。ちなみに本場所での両者の対戦成績は三勝三敗と全くの互角であった。
支度部屋で十字を切ってから出陣するのが慣わしだった。
「鬼畜米英」が叫ばれる時代だけに、さすがに観客の前でこういう素振りを見せることはなかったが、松浦潟は角界では珍しいクリスチャンだった。
佐賀県唐津市馬渡島出身の牧山強臣の家系は代々クリスチャンで、先祖の一人は島原の乱から逃れて山中に篭るまで、ヤコブ松浦の名で宗教活動を行っていた。その後一族は隠れキリシタンとして人目を避けて暮らしていたという。
一八六センチという長身に色白の二枚目という恵まれた容姿は、ほぼ同じ体格ながら古武士のような風貌で、その男性美に人気があった武蔵山とは好対照を成していた。双方とも女性人気は凄かったが、ストイックな武蔵山と比べると、ダンスホールで踊るのが好きというモダンボーイタイプの松浦潟は、温厚で愛想も良かったこともあって、行く先々で女性ファンから取り囲まれ、稽古に身が入らないことを指摘する声も少なからずあった。
贔屓の料亭の女将を追いかけて部屋に無断でシンガポールまで渡航しようとした時には、幸い神戸で連れ戻されたからよかったものの、下手をすれば破門されていたところだった。
このことが尾を引いて相撲に気持ちが入らなくなり、十三年一月に二十二歳で入幕しながら、たったの一場所で十両に陥落している。
大器と期待されながらなかなか本領が発揮できなかったのは、気分屋で好不調の波が激しかったことと、スタミナに乏しく相撲が長引くとあっさり勝負を捨てるようなところがあったからだ。
それでも怪我による途中欠場を余儀なくされた最後の場所を除けば、幕内戦績は七十九勝七十九敗の五分で、三役経験が一場所(小結)しかない力士にしては高勝率といえる。
松浦潟は痩身ゆえに非力そうに見えるが、重量級の照国を高々と吊り上げるほど腕力は強く、左差し右上手からの投げは「松浦の上手投げ」の異名を取るほどの豪快さがうりだった。
長身、腰高の体型ながら、低い当りから相手の突っ張りをかいくぐるようにして長い腕で褌を掴むのが巧く、仮にのけ反らされても弓なりになって踏ん張る下半身の粘りがあった。この柔軟な足腰のおかげで九州山や増位山の強烈な突っ張りをしのぎ、笠置山の二枚蹴りも通用しなかった。
切れ味鋭い投げ技は大関清水川のマンツーマン指導によるものだ。
錦島部屋という小部屋の出身ながら、新弟子時代から双葉山、旭川といった立浪勢が稽古をつけてくれたことも大きい。幕下あたりの先輩力士たちから可愛がられるのと、一流力士の技を体感するのとでは稽古の質が段違いだからだ。褌さえつかめば三役クラスでも犬ころのように投げ飛ばしてしまう双葉山や清水川に連日のように鍛えられていれば、投げる時の体重移動や力の入り加減が次第につかめてくるものだ。
十両から新入幕の頃までの一時期は先代の四股名である大蛇潟を名乗っていたが、その間の成績が振るわなかったため、再び松浦潟に戻している。
再入幕後は大勝ちもしなけらば大負けもしないという安定した成績を挙げ、幕内中位に定着したが、相撲に気迫が感じられず、慈悲深いクリスチャンだから相手に勝ちを譲っているのではないかとまで揶揄される始末だった。
そんな彼が突如闘志を剥き出しにしたのが、十六年五月場所のことだった。
序盤を四勝一敗と好発進した松浦潟の六日目の対戦相手は、一九〇センチの長身から繰り出す破壊力十分の突っ張りを武器に将来の大関候補と目される相模川だった。
過去の対戦は相模川の四勝〇敗だが、前場所に五ツ島、前田山の二大関を破り登り調子の松浦潟への期待も大きく、ようやく目覚めた大器が大物相手にどこまで奮闘できるかに焦点が集まった。
勝負は一瞬だった。相模川の胸板目がけて頭から突っ込んでいった松浦潟は前褌を掴むや一気に前に出て押し出してしまったのだ。あまりにも当りが強かったせいか、衝撃で鼻血を出した勝者の顔は鮮血で染まっており、いつもの爽やかな男前が鬼神のような形相に変わっていた。
苦手な終盤も集中力を切らさずに勝ち進んでいた松浦潟は、十二日目の大関前田山戦でも気迫の相撲を展開した。がっぷり四つからの投げの打ち合いでは、上手投げでバランスを崩された前田山が捨て身の打棄りで凌ごうとしたところに松浦潟が身体を寄せてそのまま寄り切るかに思われたが、勝ちを焦ったか徳俵を踏み越してしまい、よもやの逆転負けとなった。
突っ張りを得意とする力士を苦にしない松浦潟は、前田山とは通算では一勝三敗とはいえ、九分九厘勝っていたこの一番を落としていなければ全くの五分であり、準本場所でも毎回熱戦を展開していた。
最終的には十二勝三敗という好成績を挙げ、ついに小結に昇進したが、ようやく一皮剥けたかと思われたのも束の間、この場所以降はまたしても無気力な相撲に戻ってしまう。
無気力と表現するといかにもやる気がなさそうに感じるかもしれないが、彼の場合は極度の緊張症で、緊張しすぎると支度部屋でも身体が紅潮して震えがくることもあったそうだから、それを抑えるために少し斜に構えたところがあって、周囲から気迫に乏しいと誤解された可能性もある。
すでに過去の存在となりつつあった松浦潟が久々に目覚めたのは、十八年五月場所からである。
場所前に所帯を持ったこともあってか、珍しく気合の入った稽古をしており、関係者の間では一月場所のダークホースとして注目されていたが、予想は見事に的中した。
五月場所五日目、立ち合いで松浦潟の低い当りを頭で受けた照国は、突き上げて体を起こすや一気に土俵際まで寄って出たが、左を捲き変えた松浦潟の身体ごと捻るような右上手投げを踏ん張りきれず土俵に叩き付けられた。
伝家の宝刀「松浦の上手投げ」の切れ味は七日目の安芸ノ海戦でも健在だった。
同世代の安芸ノ海とは入幕前から良きライバルで、幕下~十両時代は松浦潟の方が強く、評価も上だったが、幕に上がってからは一方的に差をつけられ、準本場所で一度勝ったきり、本場所では七連敗を喫していた。
スピードで勝る安芸ノ海は四つに組み止めると、間髪入れずに踏み込んでから下手投げを繰り出し、松浦潟の体は完全に前のめりになってしまったが、そこからがなかなか落ちない。逆に身体が密着した状態からの松浦潟の上手投げで横綱の体が宙に舞った。
土俵際での投げの打ち合いでは、持ち前の柔軟性を生かして、馬力で勝る羽黒山さえ投げ飛ばしてしまう安芸ノ海が十分な体勢から逆転されるのは珍しい。
対戦するまで全勝中の二横綱を正攻法で一蹴したことで松浦潟の株は急上昇したが、平幕上位で序盤から強豪相手の激戦が続いたせいか、体力的に持たず、後半戦は格下相手に五連敗を喫し、三役復帰は叶わなかった(七勝八敗)。
ところが、六月の満州場所(準本場所)では十二勝三敗と大勝ちし、五月場所のダブル金星がフロックではなかったことを証明して見せた。
その後も平幕上位にあって七勝八敗、六勝四敗と健闘が続き、前頭三枚目で迎えた十九年十一月場所は三役復帰どころか大きなトラブルに見舞われてしまう。
身体が柔軟で怪我の少ない松浦潟は、入幕以降一度も休場がなかったが、五日目に普段はお得意さんにしている備州山に寄り倒された際に腰を痛打し、六日目から欠場することになった。
そしてこれが彼にとって最後の土俵となった。
この場所は三横綱二大関を含む十名が欠場するという前代未聞の荒れっぷりで、その間隙を縫った古参大関の前田山が初優勝を飾っているが、食糧難の折、どの力士も栄養不足のうえ日頃から勤労奉仕に駆り出されているため稽古量も足りず、十日間の土俵を全うするだけでも一苦労という同情すべき状況にあったことは否めない。
元々線が細くスタミナに難のあった松浦潟にこの過酷な状況を乗り切るだけの体力は残されていなかった。
かくして運命の二十年三月九日の夜を迎えた。
大方の相撲関係の書籍には、近所の住人の目撃証言をもとに、松浦潟夫婦はすでに火の手が回った深川方面に避難中に行方不明になったと記されているが、混乱時で情報が錯綜していた中、夫婦仲の良かった二人の最期を美談的にまとめたものと思われる。
実際は、この日松浦潟は贔屓筋に招かれて横浜に出向いており、その帰路、井戸ヶ谷の実姉の自宅に立ち寄ったところで東京大空襲が始まったらしい。松浦潟は姉夫婦から泊まってゆくよう諭されたにもかかわらず、「冨美子一人残しているので」と言い残して足早に東京の自宅へ向かったところで消息は途絶えている。
横浜の井戸ヶ谷から自宅のある世田谷区下馬までは四〇kmはあるうえ、空襲により交通機関は麻痺していたことを考えると、松浦潟は大森区あたりで罹災し、妻とは離れ離れのまま最期を遂げたと見るのが妥当だろう。
周囲が引き止めるのを振り切って愛する女性のもとへ向かったことが命取りとなったところは、豊島のケースと全く同じで、男気ゆえの悲劇という人生の結末は何とも居たたまれない。
意外なことに、松浦潟は相撲にはそれほど魅力を感じておらず、引退後には妻の実家である名古屋の時雨茶屋(主に魚介類を提供する飲食店)を継ぐ計画を立てていたというから、その無念さもひとしおだったに違いない。せめてもの救いは、徴兵検査では「国技に精進するように」と軍からのお達しがあったおかげで、応召されることなく短いながらも夫婦水入らずの新婚生活を楽しめたことであろう。
松浦潟夫婦には子供はいなかったが、同郷の親類に当る牧山通雄が戦後時津風部屋に入門し、荒波秀義の四股名で幕内を十二場所(最高位前頭四枚目・四十年三月場所)務めている。
松浦潟とほぼ同体型の荒波は、長身を生かした吊りを得意とし、二十歳で十両、二十二歳で入幕というところまで松浦潟と全く同じペースだったが、軽量で上位力士には全く歯が立たなかったこともあって、そこから伸び悩み、二十五歳の若さで引退した。
実弟春雄の次男浩嗣もそれからのち時津風部屋に入門するが、靱帯の損傷により幕下で終っている。
名倉光子著『虹はつかめなかった』という小説がある。同書は松浦潟をモデルにした相撲小説で、装丁画は松浦潟のライバルの一人でもあった元増位山の三保ヶ関親方の筆によるものだ。相撲評論家の河合政、小島貞二が序文に名を連ね、相撲関係者からも女流作家による初の相撲小説として好評をもって迎えられたが、主人公は岡山県出身で最高位が関脇の千歳潟に置き換えられた完全なフィクションであり、ストーリーは一種の恋物語になっている。女学校時代から松浦潟のミーハーファンで、実際に松浦潟夫妻を二度見かけたことがある筆者は、東京大空襲から十日後に夫妻が遭難した両国界隈に足を運んだこともあるという。