第8章
「わ、悪い!」
俺は、意味不明の謝罪を叫びながら、その場から逃げ出した。
腕に、胸に、そして脳髄にまでこびりついた七瀬波音の感触を振り払うように、一心不乱に砂浜を駆ける。
後ろから「こ、航太くーん!?」という戸惑った声が聞こえたが、今の俺にそれに答える余裕はない。
(なんだ、なんなんだよ、一体!)
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
まるで操り人形のように、運命のイベントへと強制送還された事実。
俺は、一番近くにあったビーチハウスのドアに転がり込むように飛び込み、乱暴に閉めた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
背中をドアに預け、ずるずるとその場に座り込む。
外の喧騒が嘘のように、建物の中はひんやりと静まり返っていた。
木の壁と、ワックスの匂い。
やっと一人になれた、という安堵感に、俺は荒い息を整える。
(そうだ、冷静になれ、鈴木航太。オタクの真価は、こういう時の情報整理能力だろうが……)
自分に言い聞かせ、ゆっくりと立ち上がる。
そして、俺は気づいてしまった。
この、ビーチハウスの雰囲気に、まったくそぐわない『異物』の存在に。
「……なんだ、あれ」
壁だ。ウッド調の、温かみのある壁の一角。
そこに、まるで最初からそうであったかのように、巨大な黒い長方形が、完璧に埋め込まれていた。
大きさは60インチはあろうか。
高級そうな、縁のない一枚板のモニター。
電源は入っていないようだが、その表面は不気味なほど滑らかで、周囲の風景を歪めて映し込んでいる。
木造の海の家に、最新鋭のデジタル機器。
そのアンバランスさが、俺の胸に言いようのない不安を掻き立てる。
俺は、何かに引き寄せられるように、そのモニターへと近づいた。
指先が、冷たいガラス面に触れようとした、その瞬間。
――ブゥン。
低い駆動音と共に、モニターが命を宿したかのように起動した。
暗い画面に、冷たいデジタルフォントの文字が、白々と浮かび上がる。
『現在視聴率:3.5%』
『裏番組視聴率:3.6%』
視聴率? 裏番組?
まるで、俺が昨夜までいた、現実世界のテレビ業界のような、生々しい単語。
そして、その下には、折れ線グラフが表示されていた。
横軸は時間だろうか。
グラフは低い位置で停滞していたが、ほんの数分前の目盛りで、ありえない角度で、天に向かって突き刺さるように急上昇していた。
――午前11時。
俺が、波音と強制的に激突させられた、あの時間だ。
ぞわり、と全身の肌が粟立った。
昨夜見た、あのテロップ。『視聴率』『視聴者満足度』。
そして、今目の前にある、このグラフ。
俺のラッキースケベが、俺の体験した官能的なイベントが、この無機質な数字を上げるための『燃料』にされている……?
(この楽園は、誰かに『観測』されている、テレビ番組……?)
その、あまりにも冒涜的な結論にたどり着き、俺が愕然と立ち尽くしていた、その時だった。
視線を感じた。
殺気、というほどではない。もっと冷たく、鋭利で、品定めするような……。
俺は、弾かれたように振り返る。
ビーチハウスの隅。サーフボードが立てかけてある、薄暗い物陰。
そこに、月詠エリカが立っていた。
腕を胸の下で組み、その豊かなB84の胸をさらに強調するようなポーズで。
背中が大きく開いた競泳水着が、彼女の白い肌をより一層際立たせる。
いつからそこにいたのか、まったく気づかなかった。
彼女の月光のような瞳が、俺と、俺の背後にあるモニターを、交互に見比べている。
その眼差しは、獲物を分析する肉食獣のように、鋭く、そして知的だった。
(見られていた……!?)
俺の心臓が、恐怖で凍りつく。
彼女はどこまで知っている? このモニターの意味を? この世界の秘密を?
俺が何かを言おうと口を開きかけた、その時。
エリカの冷徹な表情が、わずかに揺らいだ。
彼女は小さく首を傾げ、まるで自分に言い聞かせるように、か細い声で呟いた。
「……気のせいか」
その言葉だけを残し、彼女は俺に背を向けた。
そして、一瞬の躊躇もなく、夏の眩しい光の中へと、すっと溶けるように消えていった。
後に残されたのは、不気味に駆動音を立てるモニターと、俺一人。
手に入れた、あまりにも巨大な謎。
そして、月詠エリカという、新たな謎。
敵か、味方か。
俺は、自分の額から流れる冷たい汗を拭うこともできず、ただ、その場に立ち尽くすしかなかった。