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第1章

「……よしっ!」


 俺、鈴木航太すずきこうたは、勝利を確信したボクサーのように拳を握りしめ、PCモニターに食い入るように表示された時計が23時30分を指したのを確認した。

 いよいよだ。この日のために、俺はこの一週間を生きてきたと言っても過言ではない。


 六畳一間のアパートは、安っぽいフローリングの上に脱ぎっぱなしの服やコンビニの空き袋が散乱し、お世辞にも綺麗とは言えない。

 壁には、俺の人生のすべてを捧げるアニメ、『マーメイド・アカデミア』のヒロインたちが描かれたタペストリーが所狭しと飾られている。

 メインヒロインである七瀬波音ななせなみねが、豊満な胸を強調するようなポーズで微笑む姿は、まさに女神の顕現だ。

 棚には彼女のフィギュアがズラリと並び、俺の信仰心の深さを雄弁に物語っていた。


 俺自身はといえば、しわくちゃのTシャツに黒縁メガネをかけた、ごく平凡な大学一年生だ。

 身長175cm、やや痩せ型。特筆すべきことなど何もない、典型的なアニオタである。


 PCのスピーカーからは、実況スレの猛烈な勢いで流れていくコメントを読み上げる合成音声が鳴り響いている。


『水着回キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!』

『作画班は生きているか?』

『俺の波音ちゃんを拝む準備はできている』


「お前らごときが波音なみねちゃんを語るんじゃねえよ」


 誰に言うでもなく悪態をつきながら、俺はエナジードリンクを呷る。

 カフェインと糖分が脳髄に染み渡り、全身の細胞が歓喜に打ち震えるのを感じた。


 今夜放送されるのは、『マーメイド・アカデミア』第8話「真夏のビーチと秘密の課題!」。

 そう、待ちに待った、アニメにおける至高の祝祭――水着回だ。


 この日のために、俺は大学の課題を徹夜で終わらせ、バイトのシフトも完璧に調整した。

 すべては、この聖なる30分間を万全の態勢で迎えるため。


「頼むぞ制作会社……! この水着回は、人類の、いや、全宇宙の宝なんだ……!」


 俺は祈るようにテレビ画面を見つめながら、脳内で完璧な展開をシミュレートする。

 それはもはや、ただの妄想ではない。

 長年のオタク経験に裏打ちされた、ヒットの方程式に基づいた「預言」に近い。


「まず導入は、波音ちゃんのドジっ子属性を活かした王道のラッキースケベだ。浜辺で転んで、主人公の胸にそのメロン級の双丘が『むにゅっ』と押し付けられる。これだ。視聴者はまずこれで心を掴まれる」


 ごくり、と喉が鳴る。想像しただけで、下腹部が熱を帯びるのが分かった。


「だが、それだけじゃ終わらない。クーデレ枠の月詠つくよみエリカ様が、普段のガードの固さをかなぐり捨て、背中が大胆に開いた競泳水着で登場する。その白い肌と、引き締まった身体のライン……。そして何かの拍子で、主人公にそのしなやかな肢体を預けるハプニングが起きるんだ。ツンとした彼女が顔を真っ赤にする、そのギャップがいい!」


 さらに妄想は加速する。

 元気っ子の火浦ひうらあかりのフリルビキニが波でずり落ちる様を、おしとやかな風鳴かざなりここののスク水が水に濡れて身体のラインをありありと浮かび上がらせる様を……。


「完璧だ……。この構成なら、視聴率は爆上がり間違いなし……!」


 俺の理想、俺の願望、そのすべてが、まるで脚本のように脳裏に焼き付いていた。


 やがて、画面が切り替わり、ポップでキャッチーなオープニングテーマが流れ始める。

 ヒロインたちが水着姿で踊る映像は、まさに眼福。

 俺の興奮は、とうとう臨界点に達した。


「いけえええええええっ!」


 雄叫びを上げた、その瞬間だった。


 ブツンッ、とテレビのスピーカーから不快なノイズが響いた。

 画面に映し出されていた波音の笑顔が、砂嵐のように乱れる。


「なんだ、放送事故か?」


 眉をひそめた俺の目に、信じられない光景が飛び込んできた。

 テレビ画面の中心が、まるで水面のようにぐにゃりと歪み、渦を巻き始めたのだ。


「え……?」


 次の瞬間、抗いようのない強烈な力に身体が引っぱられた。

 棚の上のフィギュアがガタガタと揺れ、飲みかけのエナジードリンクの缶が床に転がる。

 俺の身体は椅子から引きずり出され、ゆっくりと、光を放つ渦の中心へと引き寄せられていく。


「ちょ、待て、なんだこれ!?」


 足を床に突っ張り、必死に抵抗する。

 だが、その力は掃除機に吸い込まれるホコリのように無力だった。

 タペストリーの波音が、まるで手招きしているかのように見えた。


「う、わあああああああああああっ!」


 最後に見たのは、実況スレのモニターに流れた『神回確定w』というコメント。


「え、嘘だろぉ!?」


 俺の情けない悲鳴が、誰もいなくなった薄暗い部屋に虚しく響き渡った。


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