2.ポーリィ・ルービン 颯爽と登場
ヤードの廊下を進むミセス・ミルトンの姿を、建築以来の汚れを重ねた窓の向こうに確認した。あとはフレディにお任せ&期待をかけて、こちらはこちらで進むべき。
植え込みから道へとび出し、メアリーアンは急ぎ足を大通りへと運んだ。心の中で、頑張ってねのお願いを繰り返している。
レスリーが留守で良かったのかもしれない。婦人をなにより苦手とする彼は、耐えられずにすぐに野に放していたかもしれないからだ。
その点ならフレディは適任かもしれない。彼はなかなか人間の扱いに長けている。あの人を相手に使うとしたなら、言葉を変えてあしらいか。
頭の中のこととはいえ、恩師に『野放し』なんて『あしらう』なんて、私ったらもう。
もっとも学校であの方に毎日接していた頃は、もっとひどい言葉を使っていたものだった。躊躇いを覚えるだけ、大人になったと思うことに決定。制服を着ていたあの時よりも前には進んでいると思わなくては、以来の年月が情けないのだ。
予期せぬ『ダーククィン』の登場に、心は揺れて荒れていた。もはや従う義務はないと言い切りながら、どこか後ろめたい思いが拭いきれていない。
あの頃に染まった闇の呪縛に、未だに囚われているのだわ。
そんな我が身を哀れと思い、空行く雲を仰ぎ見てみた。
連なる建物、狭い青空。紛れもなくこの地はロンドン。クィンの力は弱まってこそ然り。
足を進める速度が緩む。恐るるに足らずよ、メアリーアン。
――「絵でわかるものが存在するのよ。その子の直面している問題にまでたどり着くわ。無意識のうちに育っている危険な思いやそういった、言うなら内側からの蝕みね。描くときに人の心はまっさらになる。壁が消えて、本当の自分が出てきてしまうの。隠そうと躍起になるなら、隠している絵になるわ。知られたくないことをそんなに強く抱え込むこと。これがもう問題であるとは思わない?」
他には客のない店に、彼女の論は反響していた。ドアに着いたベルの音にも気付かないのは、対して座った男性も同様。
窓の側で椅子の位置を直していた女主人が、肩をすくめて楽しそうな笑いを見せた。きっと、もうずっと、この調子で過ごしているのだろう。
「お話中失礼するわね。戻ってきたのよ、私」
「あら、メアリーアン」
近づく足音にも気付かなかった彼も、何かを言おうと口を開いた。けれど続いた彼女の言葉に、行き所なくそのまま閉じる。
「あなたの風景画の開放的なことと言ったら、感動的なくらいだったわ」
「あなたが私を書いた肖像画、私は大切にとっているわよ。言いたいことをまだ言っていないもの」
「言われなくてもそれで充分。では首尾は?」
「レスリーがいなくて焦ったけれど大丈夫なの、フレディにお願いしてきたわ。心配はいらないと思う。自由時間よ」
聞くと彼女は・ポーリィはくすくす笑った。
オッケイ、フリータイムというわけね。それは学院長の所在がどこか一箇所にはっきりしていて、しばらく動かないことが明確な場合に、学生たちの間で使われていた言葉であった。
知ってか知らずか彼の方、ジョンも微笑む。ポーリィと話している間に、ずいぶん気持ちはほぐれたようだ。ほんの一時間ほど前に社の図書室で出会った時に比べれば、顔色からして違って見えた。
「迷惑をかけて申し訳ない。母はあの通りの気性なので、お友達にもきっと何か失礼を働くことと思うのですが」
「あの方がどんな方なのか、もしかしたら私はあなたより知っているかもしれないわよ、ミスター。特に怒っている今みたいな時のことはね。お友達はたぶん、上手に対応してくれるわ。当たりのやわらかい人だから学院長先生を落ち着かせることもできるかも」
「それはすごい」
「お友達は先生お好みのきちんとした方だしね」
まだ笑いながらポーリィが添えた。メアリーアンの友人であれば、一度は顔を合わせているのだ。
女たちの飛び交う会話に怯みを見せずに加わったことから、家族に女性が多いのではと推測を立てれば、果たしてそのとおりだったフィデリティさん。
彼なら確かに上手に会話を続けそうだわね、と決め付けてうなずく。
「万一足止めに失敗してしまったとしてもここが見つかるわけはないもの、話をしていても大丈夫よ。これからどうするつもりなの? 当てもなくとび出してきたわけではないのでしょう?」
ここに来てまさかそんな無計画な出奔であったと言われてしまったら、大義名分の勢いが落ちそうだ。女王の横暴から救い出した青年には、賢くあってもらわなくてはかいもない。
「友人を頼って、アメリカに行く予定です。学生時代の親友がニューヨークで勤めているので、彼の力を借りれればと思って」
メアリーアンとポーリィは、互いに顔を見合わせた。家を離れ町を離れ、さらには国からも離れてゆくのか。
手前の二つで止まっている自分たちを思い、少し見上げる気持ちを味わった。それも新大陸。船に乗り海を越え、十日もかかる別の土地。
不可思議だ。ジョン・W・ミルトンにそんな気持ちになるなんて思いも寄らぬことだった。
隔週末ごとにおとなしく、母親の茶会に参加し見せる礼儀正しいその姿。生徒たちはそんな姿を茶化して、特に『ミスタ』と呼んでいた。学院内で若い男といえば彼だけであったという話。
脅威である学学院長の血統の者にしては牙を持たないジョンの一挙手一投足を、彼女たちはくすくす笑いと共に見ていたものだった――