10.一夜明けて ウォータールーステーション
「クレイクリフに戻るっ? またなぜそんな展開にぃっ?」
当初の行き先と駅が変わらず助かった。叫んだ女性陣の後ろに立ち、フレディはそんなことを感謝していた。
狭い馬車の中でこんな大声を出されていたら、耳が無事では済まなかったと思う。屋根を超えてはるかな空へ、飛んでいる鳥にも届いたかもしれない。そんなことまで思うのは、寝不足の箍外れのためかもしれない。
ここに至るまでの道中で計画変更を報告できなかった事情はと言えば、やはり彼女たちに存在していた。止め処なく続く話の流れに、分け入る箇所がなかったためなのだ。
もっとも駅に着いたからと言って分け入れたわけではなく、切符購入の時点になって、おかしなことに気付いていただけたが故の申告となったわけなのだが。
「逃げ出し方を考え直して、母と話をするために一度戻ることに決めたんだ。話してみて、――話せればまだ良いのかな、どうにもならなかったなら、初めの予定通りに国を出ることにするよ。とにかく、やってみるんだ」
拳は固く握られた。ジョンの決意に満ちた表情の輝きが、彼女たちには影を落とすようだった。あからさまに眉を寄せて、ポーリィが言った。
「でもジョンあなた、あの人相手に話をできそう?」
「僕が学校というものについて考えていることを、今は学院長と話してみたいと思っているんだよ。生徒たちのためにもこのままでいいとは思えない。それを伝えてみる。海の向こうで後悔の夢は見たくないから、やるだけのことはやりたいんだ。できるだけを」
やってみるよ。言い切ったジョンに、ポーリィとメアリーアンは顔を見合わせた。
そして弾けるように笑い、声をそろえて言う。
「がんばってね」
「がんばるよ。もちろんだ、がんばる。それにもう一つ、がんばらなくては」
そうだ、がんばれ。と、フレディは付添い人のような気持ちになってエールを送っていた(心中でのみ)。
どうにも頼りないジョンだけれど、この一日で彼は思い切ることを覚えた男だ。あまりたくさんのものをしまい込むのはよろしくはない。それに、しまい込むにもやり方というものがあるだろう。
拳を一層強く握り(それは母君と同じ癖だ)、ジョンは真っ直ぐ正面にポーリィを見る。
「一目でもと思っていたんだ。たくさんの話を君とすることができて、本当に楽しかった。ポーリィ。ありがとう」
「どういたしまして」
「もしまだ余地が残っていたら、僕のこれからの幸運も祈っていてください」
「……ええ。大丈夫、祈れるわ」
「ありがとう。それにこれはうまくいったらなのだけれど、君さえよければ、いつかクレイクリフに戻ってください。僕は必ずカリキュラムについても進言するつもりでいるから。君の言う芸術と触れ合うカリキュラム、あれは彼女たちに必要なものだと思うんだ」
うまくいったらだけれど。
ジョンは繰り返しそう言い、ポーリィは言葉を返さなかった。ただはっきりと頷きはした。ジョンはまた言う。
うまくいったら、だけれど。
「うまくいかせるのよ、あなたがしっかりがんばればそれだけ理想に近づくと思って、うまくいかせようと思わなくっちゃ、うまくいったりしないものだわ」
「そうだね、ポーリィ。それを僕は知ったのだった。君たちがずっと知っていたそれを、僕は昨日知ったんだ。そう思ってがんばってゆくよ。決して忘れない」
そして手を挙げたジョンの瞳に、自分たちは映っただろうか――と、フレディとメアリーアンは並んで同じことを考えていた。
急速で背景に追いやられていたように思う。気付けば(これはメアリーアンの方だけだけれど)まさしくそれ風に、汽車が去ったときにはポーリィだけが一歩前に立っていた。
そんな彼女は風に髪をあおられながら振り返り、
「メアリーアン。私はこれを運命だと思うべき?」
「えぇっ?」
飛び退るほど驚いてしまったのはなぜなのか。
発言を予想し、かつ恐れていたためだ。メアリーアンはほぼ怯えつつ、真っ向見ているポーリィに向き直った。
瞳が不安を湛え……ている、とは言えない。瞳を語るならそれはきらきらと、美しく輝きを増していた。
「私はクレイクリフで暮らしていけるものかしら」
「暮らすと言うなら、……暮らしていたわよ、何年も」
「あら、本当。経験済みだったわ」
「でも今度はたぶん全然違うから、立場とか環境も、学院長が」
つっかかりながらの危なげな言葉を、ポーリィはきっぱりと遮った。
「ジョンを追うわ。これってきっと天啓なのよ。仕事を失い生活そのものが崩壊寸前、けれど絶対に家に帰りたくはない私に、新たに開かれた道なんだわ。よし!」
「よし……って。ポーリィ?」
「部屋にある荷物をお願いしていい? 手紙も集めて送ってくれる? 部屋代は来週分までは払ってあるわ。だからそれまでに片付けをがんばってね、メアリーアン」
ぎゅうと握られていた両手は、掴まれたときと同じように大変唐突に離された。忙しなく動きながらポーリィは、口を動かすのも休みはしない。
財布の中身、内容確認。手帳、めくっては次々指示を出し、いくつもの連絡先を書き写し、
「あとそうね、来週いっぱいエマのお店を手伝うことになっているの。午後のお店番。大丈夫、あなたにもできることよ。家主さんには、私も知らせは出すけれどお話を伝えて。階下に住んでいるから。ミスター&ミセス・ブラウン。ばたばたしていたらあちらから顔を出すと思うわ。誠実な人たちだから、言うことには従っていいの。ごまかしはないから家具やなんかは言うとおりにして。そうだわ、職業紹介所も連絡をしなくちゃ。不義理はできないわよね、またお世話になるときがあるかもしれないもの。とりあえず職が見つかりそうだから旅立ったと伝えておいて、丁寧に」
ハイ、と差し出されたメモを受け取ったその動作は、ただの反射であったようだ。メアリーアンは引き続き混乱した様相のまま、慌てた口調で空のホームを指差しながら、
「でもポーリィ、汽車はたった今出たばっかりで、次のは何時だかわからないから、」
「馬車を飛ばして追いつくわよ。見ていらっしゃい、成功するから」
「そんな探偵冒険小説みたいなこと、本当にできるわけがないのよ。無理よ、ポーリィ。ちゃんと考えたらわかるでしょ?!」
「やってやれないことなんてないわ。見ていらっしゃいって言っているのよ、この! 私がね」
ぽん、とメアリーアンの肩が音を立てた。ポーリィはにっこりと、謀いよいよ実行に移す時来たりと笑い、地面を蹴っ飛ばして走り出した。
「じゃあねっ。手紙を書くわねーっ!」
降車客も見送り人も、ほとんどが姿を消したホームに、その声は散ってなくなった。雪のように降ったのならば、地面到達にかかるほどの時間が過ぎてやっと、メアリーアンは応えていた。
「そうして。えぇ」……
届かない返事に意味はない。舞う砂埃を見るも虚しい情景。空になったプラットホームの寂しさを、渋く強く噛みしめる。
そしておかしなことには自分たちは、汽車が去った方向とはまったく違う側を向いているのだが。セントラルから聞こえてくる喧騒も、また侘しく感じられる。
今自分が抱いているに似たような感慨を、抱いている人などいるのだろうか。あの大勢の中に。
「行ってしまったわ」
「そうだね」
「とりあえず。ここは出てもいいわよね」
「と、思うよ」
フレディは帽子をかぶりしばし待ち、動かない彼女の背中を押した。




