前編
一人黙々とサンドイッチを食べたアリーチェは、食後に温かいお茶を飲む。
これは、同居している親友のロベリーが準備してくれた、大切なランチである。
しっかりと味わい、呼吸を一つ。
「やる気を出さないと、めげそうだわ」
ランチから戻ってくる上司にかける言葉を考えながら、アリーチェは立ち上がった。
昼休憩が終わる時間よりも前に部屋に戻ってきたアリーチェは、午後の就業に向けての準備を始める。
温かいコーヒーを淹れ、席についた。
その耳が、リズミカルにどたどたと走ってくる足音を捉えた。
今日はいけた日か、とアリーチェは顔をしかめた。
うっとうしい午後の始まりである。
軽いノックが二回聞こえた後、大きな音とともにドアが開く。
「うおぉ。今日は。今日は、彼女と話ができたぞアリーチェ」
「聞こえていますので、今すぐその声量を下げてください」
「この感動をわかちあいたいんだよ。あぁ、今日もとても可愛かった…」
これっぽっちも聞いていない様子で、男はうっとりと目を細めた。
アリーチェは、気持ちが悪い様子の男を見てうんざりとする。
この体格の良い男の名前は、クーゴ。
アリーチェの上司であり、この国の騎士団第三番隊を率いる隊長だ。
魔物の盗伐を中心に駆り出される実践重視の精鋭部隊である第三番隊の隊長だけあって、筋骨隆々とした強そうな男である。
そんな熊のような、ゴリラのようなガタイの良い男が、くねくねと体を捻りながら、おかしなことを言っている現実が直視できそうにない。
「午後からは書類を確認して頂けるはずでしたよね。さっさととっとと席についてください」
「アリーチェ、俺の話が気にならないのか」
「正直に言えば、そうですね」
「お前っ……秘書ならもう少し俺が気持ちよく仕事できるように、話を聞いてやろうとは思えよ」
「書類仕事はたまりまくっており、時間は有限です。無駄話を聞く余裕などありません」
「無駄!?」
でかい体を揺らし、目を見開いているクーゴを横目で見ながら、アリーチェはため息をついた。
脳裏に浮かぶ、笑顔のロベリーに文句を言いたくなる。
騎士団の詰所であるこの場所の近くには、大変繁盛している定食屋がある。
安くてボリュームたっぷりな食事という、騎士団向けのメニューが豊富なありがたい場所だ。
そこには大変可愛らしい看板娘がおり、売り上げに一役買っている。
彼女の名前は、ロベリー。
アリーチェの同居人であり、親友であった。
ぶつくさと若干聞こえる声量で文句をたれながらも書類にサインをしているクーゴは、この定食屋の常連客である。
いや、常連というレベルではなく毎日通うレベルなので超常連客である。
それも、食事が目当てではなく、元気いっぱいに働くロベリーに会いたいという不純極まりない目的なので、ストーカーでは、と思わなくもない。
「あぁ……ロベリーに、またお越しくださいね、と言われた。笑顔だった」
「接客業としての基本の声かけと、マナーですね」
「冷たいな!」
冷たくはない、当たり前のことを言っているのである。
こんなに気持ちが悪いことを聞かないといけないなんて、耳が可哀そうになってきた。
「よぉし! これで最後だ、終わりだろ」
「後は私の方で確認して提出しておきます、以上です」
「では、俺は模擬練習に顔を出してくるとするか」
ぺこりと頭を下げたアリーチェを見て、クーゴは嬉しそうだ。
基本的に書類仕事は嫌いな男なので、暇さえあれば積極的に隊員と剣の鍛錬に励んでいる。
元気よく飛び出していった背中を眺めながら、アリーチェはほう、と息をはいた。
静かって、素晴らしい。
騎士隊の秘書の仕事は細々としているが、何事もなければ残業もない良い職場である。
今日もきっちり定時に業務を終え帰宅したアリーチェを待っていたのは、にこやかな笑顔だ。
「おかえりなさい、アリーチェ」
「ただいま、ロベリー。良い匂いね」
「今日は、シチューにしたの。アリーチェの好きな野菜ゴロゴロシチュー」
「最高。ありがとう」
わざわざキッチンから出迎えに来てくれるあたり、優しすぎる。
アリーチェが手を洗い、片付けてリビングに出ると、すでに夕食の準備が整っている。
ほかほかとした湯気が出ているシチューがたまらなくおいしそうだ。
「いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
ロベリーの作ったご飯は、本当においしい。
シチューに入っている野菜は大きく切ってあり、食べごたえがある。
アリーチェの好みに合わせて作ってくれてあるのだと思うと、よりおいしく感じてしまう。
焼きたてのパンも、アリーチェの帰宅に合わせて準備してくれたのだろう。
感謝しかない。
おいしさに浸っていたアリーチェに、恥ずかしそうにろべりーが口を開く。
「あのね、アリーチェ。今日私、クーゴ様とお話できたのよ」
「……あぁ、うん」
「今日もとても凛々しくて。私、思わず見つめてしまったけどバレていないか心配になっちゃって」
あの熊ゴリラが凛々しく見えるとは、ロベリーの視力こそ心配である。
そして、熊ゴリラは乙女の心には疎いので、問題はない。
だがそうとも言えず、アリーチェはただただ相槌をうった。
「隣のお客様が落とされたお金もさっと拾ってくださっていたの、本当にお優しい方よね」
「……そ、そうなの」
「お水をお持ちしたときにも、笑顔でお礼を言って下さって……」
それは、ヤツに下心があるからである。
突っ込みが止まらず、相槌の限界が近づいてきている気がする。
心の中の悪態が止まらないアリーチェは、それでも笑顔でロベリーの話を聞いた。
そうしながら、帰宅前の様子を思い出す。
帰る準備をして廊下を歩いていたアリーチェは、「うぉぉぉ」という、野太い掛け声に足を止めた。
騎士たちが鍛錬できるように整えられた運動場に、クーゴが見えた。
「もっと腰から動かせ。力が伝わらん!」
「はいっ!」
「そう、いいぞ! 足も踏ん張れ」
模擬刀を使っての実戦練習だ。
第三番隊は、何かあれば戦場の第一線に駆り出される隊なので、実戦練習はかかせない。
鈍い音を響かせながら向かってくる隊員を受け流しているクーゴは、やはり余裕がある。
隊長の動きを少しでも焼きつけようと、隊員たちも必死だ。
隊員たちに慕われているのが、すぐにわかる。
強く、雄々しく、皆をまとめ引っ張る隊長の姿がそこにあった。
あったの、だが。
アリーチェの前では、その片鱗すらなくなるのは何故だろう。
ロベリーは、遠い目をしているアリーチェに気付かずに唇を尖らせる。
「いいなぁ、アリーチェ。私もクーゴ様と一緒の部屋でお仕事したい」
「書類仕事のときだけだし、ほぼ別々よ」
ぎょっとして言い返すと、ロベリーが「クーゴ様は、仕事もしっかりされるわよね」と言った。
思わず「仕事はしっかりしてますけど、いろいろとキモイ」とはとても言えなかった。
アリーチェは王都からとてもとても遠いとある田舎で、農家の家に生まれ育った。
幼馴染のロザリーも同様である。
学校に通うようになってから、めきめきと学力をつけたアリーチェだったが、周囲の女子とはなかなか合わなかった。
学べるものは何でも学んでおきたいと考えるアリーチェと、取引や農地運営のために読み書きができればいいという考え方が多い他の生徒と、その差が出来てしまうのは当然である。
年頃になるとその差は顕著に現れ、気づけばこそこそひそひそと遠巻きに噂される始末だった。
この頃に話をするようになったのが、ロベリーである。
当時の女子の楽しみは、こんな田舎も守ってくれる警備兵に憧れて「あの人素敵」「彼女はいるのかしら」等と妄想して盛り上がることだった。
白馬に乗って白いタイツでも似合いそうな王子様タイプの男性ばかりが人気だったが、ロベリーの好みは独特だった。
彼女はムキムキボディに心を奪われ、元気に走り回る体力自慢の男性に憧れた。
話についていけなくなったロベリ―と、我が道をゆくアリーチェが仲良くなったのは、ここからである。
そう、つまり。
ロベリーのタイプは、クーゴにぴったり当てはまる。
クーゴが素敵であり、いかに恰好いいのかを話すロベリーを思い出しながら、アリーチェは仕事に向かう。
昨日書類仕事は終わったので、今日は上司に会うこともないだろう、と仕事部屋を片付ける。
「アリーチェ。アリーチェ!」
「げ」
温かいコーヒーを口にした瞬間、騒音が響いた。
ノックの返事も待たずに入ってきたクーゴは、机に座るアリーチェを見て目を輝かせる。
「聞いてくれ、アリーチェ」
「え、嫌です」
「そう言わず。さっきチラシが貼ってあったんだが、今度の感謝祭の一般フードブースに、ロベリーの店が出展するらしい」
「その、勝手に話し出すのはどうにかなりませんかね。それから、ロベリーの店ではなく、ロベリーが働いている店です」
「行かねば。絶対に行かなくては」
「……聞く気ないですね」
話を微塵も聞いていないクーゴに、一発かましてやりたくなる。
感謝祭というのは、騎士団が主催で行う一般向けのお祭りだ。
詰所や練習場を開放し、食事提供やイベントを行うので、とても盛り上がる。
一般の企業や店も参加することができ、それぞれの商品や食事を提供できるのだ。
魔物盗伐が主な仕事の第三番隊が全員揃って感謝祭に参加できることは少ないが、今年は問題なさそうだ。
「朝一なら行けるかもしれん」と言いながら拳を握りしめ、勝手に決意しているクーゴを白い目で眺めながら、アリーチェは思い出す。
接客上手なロベリーが職場近くの定食屋での仕事が決まった時、アリーチェは売り上げに貢献しようと決意した。
そのため、自分の歓迎会を開く場所には定食屋を指定した。
アリーチェのためにと料理や値段をかけあってくれたロベリーを、上司である騎士隊長のクーゴに紹介したのが運の尽き。
アリーチェの上司だからと世話をやくロベリーに、クーゴがころりと心を奪われるのは当然だった。
それまでは、「皆に慕われる隊長」であったクーゴが、「空気の読めないくねくね熊ゴリラ」になった瞬間である。
そう。
アリーチェとて、当初は一応上司なので、それなりの敬意をもって接していた。
それが、いつしかクーゴがアリーチェの前でもごもごと、何の進展のない話をするようになってから、アリーチェの言葉には棘が生えまくりである。
さらに悲しいかな、ロベリーも「とても素敵な方ね」等と言うのだ。
定食屋に毎日のように通うクーゴと話ができた、とほほ笑むロベリーは大変可愛い。
脳裏にやきつけ、頭を撫でたくなるほどに可愛いのだ。
相手がアイツではければ、もっと素直に喜べたのだが。
頬を染めて恥ずかしそうに笑うロベリーを思い出しながら、アリーチェは口を開いた。
「感謝祭のことは、申請書を読みましたので知っています」
「何で教えてくれなかったんだ!」
「教えたところで何かありました?」
じとりと見ると、クーゴはあうあうと口を開けたり閉じたりしている。
アリーチェは「あのですね」と声を荒げた。
「ここで、ただモゴモゴ言うだけの人に、何ができるんですか?」
「おおおお、おおお、お前、そんな……」
「感謝祭を一緒に回るお誘いのためならロベリーの予定を確認してもいいですが、そんなこともできないヘタレに無駄な時間をかけたくないですね」
きっぱりと告げると、クーゴがショックを受けたように震える。
よろよろと歩き、椅子に崩れるように座った。
しょぼしょぼと口を動かしているので、耳を澄ましておく。
「そんな、そんな二人で回るなんて、そんな」
「…………」
「デートじゃないか、そんなこと。そんなっ……こ、断られるに決まっている」
「………………」
「大体、何を言うんだ、どうやって誘うんだ……」
ウザイ。
聞くんじゃなかった。
アリーチェは、丸まった背中を蹴り飛ばしたくなる。
部下に「ヘタレ」と言われても怒ることなく、いじいじぶつぶつ何を言っているのか。
布団干しでばしばし尻を叩いて、部屋から追い出すメージを膨らませる。
相手は、曲がりなりにも上司である。
これは試練だ。
目を閉じて深呼吸をして、立ち上がる。
「ではこれから会議なので、失礼します」
「お前、俺を一人にするのか!」
「御達者で」
さようなら、と心告げて、すたこら部屋を飛び出した。
後ろでドアの開閉の音がしないので、まだ部屋でくすんくすんとやっているのだろうか。
さっさと部屋を出ろ、そしてロベリーのところに行け。
「何を言うんだ」ではない。
ただ「好きだ、付き合ってくれ」でいいのだ。
もしくは「感謝祭を一緒に回ろう」でもいいだろう、デートの誘いである。
あのヘタレ熊ゴリラは「断られるに決まっている」とめっそめっそと言っていたが、ロベリーが断わるわけがないことを、アリーチェは知っている。
大体、とアリーチェは息を吐く。
本当は、とても大切な親友をあんな男に任せるのは嫌なのだ!
人の話は聞かずにキモイ発言がとまらないし、大きな体をくねくねさせて顔を赤くしている姿はうっとうしいし、声もでかい。
それでもロベリーが可愛いから、アリーチェは頑張ったのだ。
クーゴにロベリーの誕生日をそっと教えたし、欲しい物や好みについても伝えた。
デートに誘えるようにロベリーが休みの日は予定を入れなかったし、彼女の興味がある場所もリサーチして教えてやったりもした。
おまけに、クーゴの素敵なところを何とか必死に見つけ出して、ロベリーに話もした。
あまりなかったかもしれないが、一応頑張った。
そうやって背中をどすどすと押しているというのに、何故あのヘタレ熊ゴリラは動かない!
謎の言い訳にお尻が縫い付けられているのかと暴言を吐きたくなるほど、遠くからロベリーを見つめるだけだ。
ロベリーがクーゴに興味がなかったら、とっくに抹殺しているレベルである。
魔物相手なら真っ先に突撃していくくせに、好きな人相手では子供よりもヒドイ。
「さっさと告白しろっての」
アリーチェは眉間にしわを寄せた。