第4話:元勇者、神獣と出会う。
鬱蒼と生い茂る草を分け、射し込む木漏れ日を潜り抜ける。そんな日々をかれこれ6日も過ごしている俺は絶賛、人喰いの森という樹海を彷徨っていた。
「まぁ…楽な道じゃあないとは覚悟してたけども…」
正直言えば、人喰いの森に入って密やかに暮らしていく、とは言ったものの、これからについては漠然としか考えていなかった。
とりあえず過ごすに良さそうな場所を、と考えていたものの、今の所、そんな場所は見つかっておらず、ただひたすら人喰いの森を歩き回っている状態だ。
「ん〜…まぁ水に関しちゃ持ち込んだ水筒は空になったけどあちこちに果物がなってるからどうにかなってるし、食べものは魔物もいれば木の実も沢山採れるから困っちゃいないんだけどなぁ…」
単刀直入に一先ずのゴールに届く気配が無いのつれぇ。
ただ歩き回っている分には問題は無い。疲れ切る前に休憩も行い、万が一の魔物の襲撃にも備えている。賢い魔物は下手に仕掛けては来ず、寝込みを襲おうともして来ない為、特別苦労はしていなかった。
強いて言うなら空もよく見えない程に木々が生い茂り、噂通りに木に付けた傷も直ぐに塞がってしまう為に方向感覚は既に失っているので、迷ったかといわれれば迷ったとしか言い様がない。
「うーん、そうなると…少し動き方を変えてみるか」
このまま歩き回っても埒があかないと思った俺は魔道具の柄を手に取り、それに魔力を込めて斧の形に変える。
ただ傷付けるだけでは塞がってしまうならば塞がる前に何度も切り付ければどうなるか、それを試してみようと言う訳だ。
「…よっ!…もう一丁っ!」
結論から言えば、人喰いの森の木々は流石に再生力というか生命力は凄いものだが、切り付けた端から瞬時に再生するという訳ではなかった。
流石に何度も斧を振ればそれだけ傷は深く刻まれていく為、休みなく斧で切り付ければいずれ切り倒す事はできる。
そして人喰いの森の木々が木材として出回っているのを俺は見た事が無いのだが、今回これを試した事でその理由がよくわかった。
「硬すぎだし、ほっときゃすぐ元通りだし…こりゃ労力に見合わんわ」
木材として言えば、まず切り倒すのにかなりの労力がかかる上に硬すぎて加工が難しそうだ。切り倒した後どうなるか迄はまだわからないが、相当に扱い辛い木材であることは間違い無いだろう、思わず愚痴をこぼしてしまう。
切り倒す段階ですらかなりの労力とは言ったが、恐らくは鉄の斧程度の強度なら何本も用意し、休む間もなく斧を振り付け、尚且つある程度の力…いや、相当な力じゃなければ幹どころか皮に傷付けるので精一杯なくらいには硬く、並の木こりじゃ切り倒す事すら不可能だろう。
とりあえず、何とか切り倒せは出来そうだし、このまま歩き続けてもどうしようも無いし、やるだけやってみるか。
切る。切る。切る。ひたすらに切る。再生する前に切る。再生しようがとにかく切る。
何回、何十回と斧を振って…さすがに100回は無かったと思うけど、途中から数えるのやめたしな。とにもかくにも、漸く人喰いの森の木は音を立てて倒れていった。
「ふぅ、流石に切り倒せばあっという間に元通りって訳でもなさそうだな…」
切り倒した木の切り株は特に再生する様子もない。
正直、森の中に生息する凶暴な魔物を仕留める方がよっぽど楽とまで思えるくらいであり、俺は何とか森に入ってから一番の強敵を仕留め、物言わぬ亡骸、もとい、倒木となった丸太に腰を掛けて汗を拭っていた。
パキッ。
ん、何の音だ? 近くに魔物がいるのか? そんな気配はないな。 風で枝でも落ちたのか? いや無風だ。
パキパキッ。
突然尻の下から何かが弾ける感覚があり、慌てて俺は腰掛けていた倒木から尻を離す。
よく見ると、倒木は急速に乾燥が進んでいるのか、あちらこちらで割れ始め、既に一回り程萎んでいる様に見える。
先程の音は乾燥によって幹が萎み、それによって割れる際に発生した音らしい。
あとよく見ると、木の皮の収縮は少し遅いのか、幹の収縮に追いついておらず、勝手に剥がれ始め、収縮した幹に半端に張り付いたままたわんでいる。
もしやと思い、たわんだ皮に剣を入れてみると、横には簡単に切れないが、縦にはスッと刃が入る。なるほど、かなり強い繊維質らしい。ちなみに縦ならば素手でも裂ける様だ。
今度は手頃な大きさに皮を切り、手で軽くほぐした上で火をつけてみる。直ぐに火は燃え移り、よく燃えている。とりあえず焚き付けには使えるらしい。これまでは葉を集め、枝を集めて炎を灯す魔法で時間をかけて焚き火を起こしてはいたが、これでしばらくは火起こしも楽ができる。
とりあえず皮の有効利用についてはこのくらいにしておいて、あとは幹の方だ。
既に幹は収縮を終えたのか、先程から鳴り続けていた破裂音は既にない。皮も大部分を剥いである為、残っているのはツルツルとした肌触りの幹部分のみになる。
やはり硬い。いくらあっという間に乾燥したとはいえ、幹に対して垂直に斧を振り下ろしてもその繊維質は健在であり、なかなか切れない様だ。とは言え、地面から根を生やしていた時と比べると既に再生力は失われている為、幾分は楽だとすら思えてくる。
丸太を一部だけ切り離した後は、今度は切り株に立て、縦に斧を振り下ろしてみる。こちらはやはりというか、皮がそうだった様に、幹の方も快音を響かせて簡単に真っ二つに割れてくれていた。
細かく割ったところで先程起こした火に焼べてみると、最初は火が燃え移り難くはあったが、一度火が燃え移ると、強く燃え出すでもなく、長い時間をかけてゆっくりと穏やかな火を灯していた。
「うん、薪には良さそうだ」
幹の方は非常に硬い為、ちょっとした棒にも使えるだろう、うまく磨けば護身用の棍棒くらいにも使えそうで、思わず独り言を呟いてしまう。
それから俺はしばらく周辺の木々に興味が移り、いくつかを切り倒して調べてみる。
その上でわかった事の1つとして、どの木も多少の差はあるが、とりあえず異常な程の強い再生力を持ち、切り倒すとすぐに乾燥するという共通の性質を持っているのがわかる。
人喰いの森の木々は他の地域で見られる木々と似たような見た目をしているが、ここまでの再生力は勿論ながら、この早さで乾燥もしない為、見た目は似ていてもこの森ならではの固有の種なのだろう。
さて、一通り試したところで日も一番高い時間になった。水分を確保する為の果物を取ってこなければ。
周囲を見回しても直ぐには見当たらないな。じゃあ上はどうかな? お、アレは良さそうだ。ちょっと高いけど問題無いかな。
見上げてみると赤々とした実が木の高い位置についている。
俺は慣れた動きでするすると木を登っていくと、枝を伝ってリンゴによく似た大きい果実を捥いだ。
一口齧ると、甘みをよく含んだ果汁が口いっぱいに広がっていく。果実の方も森の木々同様によく育っているらしい、外のリンゴには無い程非常に美味だ。
枝に座り大きなリンゴに一口、また一口と齧りついてやると、自然と頰が緩んでくる。
…いけないいけない、つい甘い果実を堪能してほっこりとしてしまっていたけど、よくよく考えれば俺は現在ゆるーく遭難している所だった。
宛ても無く森を彷徨っている状況をなんとかする為に足を止めていた筈だ、せっかく背の高い木に登ったのだからいっそ一番上まで登ってみよう。もしかしたら周囲の様子もわかるかも知れないしな。
更に少し木を登り天辺あたりに来た所で葉を払ってみると、頭が森の外に出る。
見渡す限り木と葉で覆われており、最早どこから来たのさえ直ぐにはわからない程深くまで入り込んでいたらしい。
日の高さから察するにあっちに進めばとりあえずは連合国領か魔王領だな。戻る気は無いけど。
あとは…うん、少し行った所に開けた場所と他の木から更に頭二つくらい抜けているとびきり背が高く太い木があるな。
開けているなら水場の可能性もあるし、日が落ちる前に余裕を持って到着できそうだ、早速行ってみよう。
木に登ってとりあえずの目標を定めた俺は早速更に森の奥へと進んでみる。
それに伴い草木の生い茂り方も魔物も増え、まるで近付くのを拒んでいるかにも感じたが、一度目標を定めた以上、ちょっとやそっとで諦める事はない。
少々の苦難でへこたれている様じゃ元勇者の名が廃るってもんだ。
そろそろか、草木や魔物で手間取ったおかげで予想より時間を食い、少し日が少し傾いてきた様に思える。
ただもう木々が途切れた場所は目に見えており、俺は一心不乱に生い茂る草木を分けてずんずんと前のめりで足を進めていく。
少し足を止めると水音も聴こえてくる様だ、どうやら予想通り水場もあるらしい。
「…おおっ!」
生い茂る草木を抜けると、一本の他の木々とは比較にならない程の巨木を取り囲む様にこんこんと水の湧く水場が広がっていた。
降り注ぐ陽の光が巨木を照らし、水場が光を反射して煌めいており、最早神々しさすら覚える程だ。
…さて、念願の水場じゃあるけどもだ。
一瞬、心の中でそう前置きして視線を向けたのは巨木の根元にいる存在だ。
巨木と共に陽の光を浴び、同様に神々しい煌めきを湛える毛並みに見惚れてしまいそうになる。
気品すら感じられるその姿からは凄じい威圧感が放たれており、刺し穿つ様な目で俺を睨んでいた。
間違いない、神獣だ。一目見ただけでそう確信できる。
子供の頃に子守唄代わりに何度も繰り返し聞かされたお伽話に出てきた存在だが、その話の中に出てくる白銀の毛に覆われた巨大な狼の姿をした神獣の特徴そのままの姿であり、周囲の魔物と比べものにならない神々しさを感じる。
その物語によると、その神獣は魔物とは違い、その知能は非常に高く、人との意思疎通が出来るとの事らしい。
そしてその力は絶大で、遥か昔の伝承によると神獣を捕らえようとした王国が一晩で滅び、周辺の国々にも甚大な被害を与えたという。
・・・・・・・
──とある王国の辺境にあるとある山奥の農村、その更に山奥、人が踏み入る事も出来ない洞窟に白銀の毛並みを蓄えた狼が住み着いた。
山に住み着いた狼は山野を駆け回り狩りをして人目に付かぬように暮らしていた。
その近くにあった村の事は狼も知っていたが、平穏な暮らしの為に襲いかかる事は無く、村人からは恐れられてはいたものの、害は無いとしてお互いに干渉せずにいたという。
だがある日、村の子供が山中に迷い込んでしまい、子供は夜の山の中で魔物に取り囲まれてしまう。
そこに狼が現れると子供に襲いかかる事は無く、取り囲む魔物だけを瞬く間にその牙と爪で引き裂いた。
狼はあくまで子供を取り囲む魔物を狩りに来ただけだったが、その場で泣き喚く子供から村の匂いがするのに気付くと、その背に乗せて夜の山中を駆け、村へと送り届ける事にした。
村の子供は狼に救われた事を村人達に話し、話を聞いた村人はその礼の為にと狼を探し出す為に山の中へと入っていく。
その内に漸く村人達は狼が住処としていた洞窟を発見するが、狼はその牙を剥き出しにして激しく吠え、俺の住処に近付くなと村人達はすげなく追い返されてしまう。
しかし村人は村の子供を救われた恩を返さずにはいられないと、何度追い返されようが諦める事無く供物を捧げに訪れ、遂に狼も村人たちに根負けし、その供物を受け入れる事にした。
狼はやがて、何度も訪れる村人に供物はもういい、今後は村を襲う災厄から守ると村人達に告げ、度々、村を訪れる様になる。
それから村人は狼に対し、畏怖から敬愛の念を向け始め、果ては村の護り神だとして崇める様になるが、狼もそれに応える様、周囲に蔓延る危険な魔物から村を守護する様になった。
狼が守護していた村は人間と魔族が共に暮らす平和な村で、順調に発展を続け、やがて他の村や街とも交流を行う様になる。
そしてある日、その村に旅人が訪れると、同時に村を訪れていた狼を一目見てその美しい毛並みとその勇壮さに目を奪われる。
旅人は狼が村の護り神だとは知らず、村で飼われている珍しく美しい魔物だと思い、出身の地である王都へ戻ると、狼の事を王に報告した。
王は珍しい物や美しい物を手に入れる為なら手段を選ばぬ欲深い王として知られており、旅人の報告を聞いた王はその狼を村を滅ぼしてしまってでもその手に収めようと、軍を差し向ける。
軍に待ち伏せされているなどとは露知らず、行商の為に村を出た村人だったが、抵抗する間もなく捕らえられると、狼の情報を聞き出す為に聞くに堪えない様な惨たらしい拷問を受けるが、終ぞ口を割る事は無く命を落としていった。
その後もまた一人、また一人と村人達を捕らえたが、軍は結局何一つとして神獣の情報を得る事は出来ず、無為に日々が過ぎていく。
ただ一つ、村人から聞けた言葉は"神獣様は村の護り神、いずれ狼が軍に罰を降すだろう"という言葉だけだった。
軍は一度、王都へ引き返すとその言葉を王に伝えたが、強欲で傲慢な王は逆上し、軍に力尽くで狼を捕らえよという命令を降す。
軍は直ぐに村を取り囲み、狼が村を訪れるのを待つことにした。
そして狼が村に訪れると、狼を村から燻りだす為に村のあらゆる場所に火を放ち始める。
突如村を襲った火の手に村人達は戸惑うが、炎は瞬く間に広がり、また一人、また一人と村人達は大人も子供分け隔て無く炎に呑まれていく。
炎に、炎が生み出す熱に村人が倒れていくのを見て狼は怒り、毛を逆立てると、辺りは夏だったにも関わらず、季節外れの吹雪が吹き荒れた。
凍て付く風が村を包む熱を吹き飛ばし、降り頻る雪が村を呑む炎を消していったが、そこには辛うじて難を逃れた僅かな村人だけ。家も、家畜も、畑も、その殆どが失われてしまった。
その無残な村の姿に憤る狼の眼下には王が差し向けた兵士達。狼は尋ねる。"村を焼いたのは貴様達か"と。
兵士達は狼が人の言葉を話す事に驚くが、人の言葉が通じると分かるや否や、"村人は村にお前がいた事で王を侮った。村が焼かれたのはその報いである"と返し、それと同時に"王がお前を飼いたいと所望された。魔物である貴様がそれを断る権利など無い"とも告げる。
狼は兵士達から放たれた身勝手極まりない言葉を聞くと、怒りに震え毛を逆立てて牙を剥き出しにする。
"ならば私の答えはこうだ"と、狼は兵士達に向け、遂にその爪牙を振るう事を決めた。
狼の一吠えと共に、村の周囲を嵐が吹き荒ぶ。そしてそこは一瞬にして阿鼻叫喚の渦に包まれる事となった。
嵐が過ぎ去った後の村の周囲には鎧に包まれた兵士達の屍がうず高く積み上げられており、そこには普段白銀の新雪に覆われている様にすら見える狼の姿がある。
しかし狼の怒りは未だに収まっておらず、逆立った白銀の毛が赤い斑ら模様に染まらせていた。
一方で、僅かに生き残った村人は何もかもが壊され、失われてしまった村を見て絶望に打ちひしがれてしまっていた。
狼はそれを見て一旦、怒りを燃やす事をやめると、村に戻り、焼け落ちた民家を掘り、他に生き残りはいないかと探す事にする。
探せども、探せども、見つかるのは黒く焼け焦げた人の成れの果てと瓦礫ばかり。
生き残った村人の家族を見つけもしたが、その誰もが既に手遅れだった。
狼が必死になって生き残りを探していると、その中に一人だけまだ息のある青年を見つける。その若者は全身に酷い火傷を負っており、殆ど元の面影は残っていないが、狼にはそれが誰か、微かに感じる匂いですぐにわかった。
その青年はかつて狼が救った子供であり、その青年もその恩から特に狼を慕っていた。
狼は青年の火傷の痕を舐め、少しでも痛みを和らげようとしたが、間も無く青年が狼に微笑み返す。そして狼の無事を悟ると、安心したかの様にして息を引き取っていった。
狼の怒りは遂に限界を迎える。
狼は王国中に響き渡る程の遠吠えを上げたその後、三日三晩、一切の躊躇いも、見境いも、容赦も無く、王都へと続く道の途中にある村々を身に纏う暴風と氷雪とで次々と滅ぼし、暴虐の限りを尽くした。
最早怒りで我を忘れた白銀の狼は自らを災厄へと変え、王都へと迫っていく。
災厄が迫っていた王都は既に混乱を極めていた。
民は迫り来る災厄の話を聞きつけるや否や、王都から逃げ出そうとしていた。しかし欲深く傲慢な王は民を逃す事なく、自らの身を守る為に徴兵と重税を課した。
軍の半数以上は既に狼を捕らえる為に派兵しており、それが失われた今、無理矢理民を兵に仕立て上げ、自分は玉座の上で踏ん反り返っていたのだ。
そして遂に白銀の狼は災厄を引き連れ王都へと辿り着いた。
兵達は必死に抵抗しようとするが、為す術なく王都もまた、他の村々と同様に一瞬で阿鼻叫喚に包まれていく。
嵐と吹雪、そして銀狼の爪と牙は兵士も民も、貴賎も何もかも、分け隔てなく悉くを滅ぼす。人が天災に勝てる筈も無い。欲深く傲慢な王はあらゆるものを手に入れてきた事で天災すら捩じ伏せられると見誤ったのだ。
兵も民も、城さえも失った王の前に銀狼が迫る。
王の頭にあった冠はいつしか目の前に転がっており、王は慌てて転がっていた冠を手に取ると、銀狼に差し出し、王の座を譲ると命を乞う。
狼は全てを失ってなお命を乞う王を見て、滑稽だと嗤う。
"貴様は全てを手に出来ると驕った。そして全てを失ったにも関わらず、此の期に及んでまだ望みを叶えられるなどと思っている。驕るのも大概にせよ"、そう告げられ王は漸く自分が奪われる側の人間になったのだと気付いたが、次の瞬間には頭から一呑みにされた。
斯くして、王都は一夜の内に滅び、滅ぼした白銀の狼は人の前から姿を眩ませた。
・・・・・・・
──というのがお伽話の内容であり、少なくとも連合国領にしても魔王領にしても、子供達の大半は親兄弟から欲を張ると白銀の狼に食べられるぞ、と脅かされている。
そしてそれと同時に、このお伽話の銀狼はこの世界に数体しか確認されていない神獣の一角、フェンリルだとされており、それが今まさに俺の目の前にいる、という訳だ。
「人間か、ここは私の住処だ。早急に立ち去り、全てを忘れろ。そうすれば命だけは見逃してやる」
フェンリルの曇りなき白銀の体毛に恐ろしさ、神々しさすら感じるが、それとは別に物珍しさから目が背けられずにいると、更に鋭い目付きで俺にそう告げてくる。
「寝ているところを邪魔して悪かったな。ただ俺はこの森を彷徨ってて水場の音を聞きつけて辿り着いたんだ、水くらい汲ませてもらってもいいだろ?」
側から見れば伝説の神獣にわざわざ喧嘩を売らなくてもいいだろうと眉を顰めるだろうが、俺からしてみれば傲慢を罰するお伽話の神獣が今まさに傲慢を体現しているのを内心、笑ってしまっていた。
勿論、フェンリルも流石に神獣と言うべきか、それを悟り、鼻を鳴らしつつも更に威圧感を重ねていたり
「ふん、私を前によくも恐れずにいられるものだ。無知蒙昧の馬鹿か、或いは傲岸不遜の狂人か…」
「どっちでもない。知らん内に勇者に担ぎ上げられた元農民で、私利私欲の為に争いを繰り返す傲慢な人間に愛想尽かした元勇者の今は世捨て人だ。私利私欲に溺れた傲慢な王を国ごと滅ぼした世捨てフェンリルさんよ」
フェンリルの威圧を込めた言葉に皮肉を返してやると、恐れるどころか言い返されるなどとは予想していなかったのだろう、驚いた様に目を白黒させていた。
「小僧、どこでその話を聞いた? もう1000年は前の話の筈だが…」
「おー、世捨てフェンリル歴1000年の大大大ベテランじゃ流石に今の世の中には疎いみたいだな。今や森の南じゃお伽話になってて誰もが知ってるぞ? まぁその伝説そのものがこんな場所にいるのには流石の俺も驚いたけど」
「何…? もうあれから1000年もの月日が経つと言うのか…」
「いや、正確にはわからんけども」
皮肉を返し続けてやるが、流石にフェンリルも真に受け続ける気は無い様だ。皮肉の部分は軽く流しながらも、寧ろ流れた月日の方に驚く始末でついツッコミを入れてしまう。
「よもやお伽話にまでなっていようとは…それで他に貴様が知っている事は無いのか? ソクロ村は? 今もまだあるのか?」
「ソクロ村は今も健在だけど相変わらずのど田舎の農村だよ。あとザルバドは俺の随分昔のご先祖様だ」
「ぬ? ぬ? ザルバドとな!あの小僧、まさかあの時既に赤子をこさえておったか!」
このフェンリルのお伽話は元々俺の生まれ故郷であるソクロ村に伝わる伝承だ。
ザルバドは若くして死んだ俺のご先祖様で、お伽話の中で村を焼き討ちに遭って死んだ青年は彼の事である。その時には既に子供がおり、その伝承は母親から子供へ、子供から孫へと代々語り継がれており、今は俺の代、という訳になる。
…ま、今のところ語り継ぐ子供どころか嫁もいないんだけどな。
「それ以上は流石にわからんぞ? その話は語り継がれちゃいるけど流石に1000年も昔じゃ調べようも無いし、ソクロ村は今は連合国に属する国の村で魔族はいないし、そもそも魔族であっても1000年も生きる魔族なんて聞いた事無いしな」
「ううむ…私がここでだら…怒りを鎮める為に住み着いている間に南はそうなっていたとは…」
待て。今"だらけてる間に"とか言おうとしたな? だらけてる自覚はあったんだな?
まぁ確かに言い伝えがまんまその通りなら人に慕われる事にも失望する事にも嫌気がさす程嫌な出来事があった訳で無理もないだろうけどさ。それよりもだ。
「目が覚めたら1000年近く経ってたとか、まともに考えたらむしろある意味威圧されるよか怖いんだけど!?」
「人の寿命からすれば十分長い年月であろうよ。それよりもザルバドの子孫が勇者とはな、人の因果とはわからんものだ!」
「元だ、元勇者。俺が勇者になる前から親父も爺さんもそのまた爺さんもずっとただの農民。なんなら俺も勇者の前は農民だよ」
俺の家系は何故か俺が勇者に選ばれたそれ以外は先祖代々、脈々と続く農民一族だ。勇者の役割を放り投げる時点で思っていたが、勇者なんて役割は本当に性に合わない。
今日より明るい希望ある明日の為に生きる、という点についてはその役割は同じだが、その手段の為に持つのは剣じゃないし、目的も見ず知らずの誰かの為じゃない。
俺は鍬や鋤を持ってる方が自分らしいし、助けるのは自分自身や自分の身の周り、それだけで精一杯の一介の農民の方が性に合っている。
「で、ご先祖様のよしみでこの辺りで畑でも作ってのんびりと暮らしたいんだが構わないか? フェンリルの爺さんよ」
「くくっ…はっはっは!その傲慢さ、やはりお前は勇者だな!」
「農民だよ!」
あくまで俺を勇者だと噴き出しながら言い張るフェンリルに俺は農民だと強く言い返すが、フェンリルはより声を上げて笑い飛ばす。
「いいや、勇者だ!私は女だぞ? 況してや爺さんでも無ければ婆さんでもない!まだまだ子を成せる女だからな!いい度胸をしている!くっはっはっはっ!」
「狼の姿でわかるか!だったらもう少し女らしくしろよ!」
「くはーっはっはっはっ…げほっ、いや笑い過ぎて…あー…久方ぶりだな、これ程までに気持ちよく笑わせてもらったのは…くくっ…くはっ…!はっ…!」
「いやまだフェンリルとして若いってのはわかったし、男どころか爺さんだと思い込んでたのは悪いと思うけど、怒るのはまだしもそこまで笑うもんか…?」
笑い転げるフェンリルに最早申し訳なさすら感じてしまう。そんなに笑うところだろうか…。
「余りにも見当違いも甚だし過ぎて怒る気もせんわ!あとはそうだ、あのザルバドの子孫なら構わん、家を建てるも畑を耕すも勝手にするがいい。それとそこの棒切れも使うがいい、何かの役には立つだろうよ」
フェンリルが笑いながらそう応え、顎で巨木の側の地面に刺さった棒を顎で促してきた。
棒切れなんてその辺で拾えばいいだろうに、とは思うが、わざわざそう言うのならと俺は地面に刺さった棒切れを手に取ってみる。
手には良く馴染むし、何か特別強い生命力すら感じる不思議な棒切れだ。他の木々の比較にはならないとすら触れてわかるくらいには。
「んん…でもただの棒切れ、だよな?」
「そう思うか? ならば魔力を込めてみろ」
「うん? ああ…って、うわっ!?」
不思議な存在感を感じる以外は何の変哲もない棒切れなのだが、フェンリルに言われるまま俺は魔力を込めてみる。
すると突然蔓とも根とも知れないものから棒から伸び始め、魔道具の柄に絡み始めた。
「フェンリルッ!言う通りにしたら…このっ!おい、何とかしてくれよ!」
「その棒切れは元々不朽の魔食大樹、別名世界樹ユグドの枝だ。魔力を込めてやると持ち主の思う形に姿を変え、また近くの魔力が込められたものに絡みつき取り込む、まぁ十中八九悪いものにはならんから安心しろ」
「安心しろって…!その十中八九ってのが不安になるだろっ…このっ…!無理だっ、もう完全に絡みついてっ…!」
魔道具の柄に絡み始めた魔食大樹の枝を引き剥がそうとしても際限なく根は伸び魔道具を取り込もうとする。
持ち込んだ武器や道具になるものはこれだけなので失ってしまうとそれこそ枝や石で一から道具を作るしかないので俺にとっては死活問題だ。
結局魔食大樹の枝は引き剥がせず、魔道具の柄を完全に取り込んでしまい、2本の太めの根が捻れ絡まって出来た短い棒の様な姿へと形を変えてしまう。
「うわぁ…どうするんだよこれ…。持ち込んだ武器類はこれ一本、魔力を込めるだけで剣に槍、短剣に斧、鍬や鋤まで行ける万能魔道具だったのに…」
持ち込んだ魔道具が台無しになってしまい、落胆しながら俺は棒切れを手に取る。
確かに握りやすくはあるがそれだけ、武器にも短すぎるし綿棒にすら使えない。せいぜいすりこぎがいい所だ。
「ほう、今はそんな便利な魔道具があるのか。ならば魔力を込めてみろ」
「ええ〜…また魔道具が取り込まれたら…って、おおっ、これは…!」
フェンリルがそういうからと、俺は半信半疑で魔食大樹の枝が絡んだ柄に魔力を込める。
すると、捻れた根が成長を始め、長剣の形に伸びていく。一瞬、勇者の剣を頭に浮かべた為、その見た目は勇者の剣と色味が違う以外は殆ど同じ意匠に仕上げられている。
「おおっ!んお〜…。おーおー。ほぉ〜…」
枝でできた剣を手に試しに振り回してみる。
握りは手に馴染み、重さは以前とは違い重心が安定した分扱い易さはより増した。それに心なしか身体も軽い。
今度は剣から斧に変え、周りの木に振ってみると、魔食の大樹の枝製ということもあるのだろうか、苦労していた幹を切り倒すにも木々の再生が起こらない上、より深く切れる。
以前なら数十回と斧を打ち込んで切り倒した木が十数回打ち込むだけで簡単に切り倒せてしまった。
勿論剣にしても簡単に皮に刃が入る為、皮を剥ぐのにも苦労しない。
「な? 言っただろう」
「まぁそりゃそうだけど、それならそうだと始めから言ってくれよ。相当焦ったんだぞ?」
「何をぐちぐちとタマの小さい事を抜かしとる。さっきの勇者らしい威勢はどうした?」
「勇者らしい威勢ってなんだ、あと女の子ならタマとか言うな」
無茶苦茶な事を言うフェンリルに文句をぶつけてやるも本人は何食わぬ態度を変えない。あと平気で下品な事を言い出したので何気に突っ込んでみるが、やはりどこ吹く風で手応えはない。
「女の子という歳でもないわ、勿論老婆でもないが私は貴様の100倍は生きとるからな」
「はいはい、ただ次からはこういうのはちゃんと先に説明してくれ、本気で焦ったんだからな? 頼むよ、先輩」
「先輩?」
人喰いの森の住人という意味でそう言ったのだが、フェンリルはよく意味がわかっていないようで首を傾げていた。
「先住者だから敬ってんだよ」
「おお、そうか!…にしてはもう少し口の聞き方が」
「そういう先輩風吹かす先輩ならもう言わない」
「むう…だとして、貴様がザルバドの子孫だとはわかったが、そういえば名前を聞いとらんかったな」
「あっ、今更だけどそうだった!」
本当に今更だ。ここまで話し込んでおいて俺達は名前を未だに名乗りすらしておらず、それに気付いた俺達はつい笑ってしまう。
「いやーうっかりしてた。素性とかは話してたのにな。じゃあ改めて…俺はディラン、元農民で元勇者、でザルバドの子孫のディランだ。これからよろしく頼む、フェンリ…」
フェンリル、と呼ぼうとしたが、それは神獣としての名前であり、何か違う気がしてしまい口を濁してしまう。
それが引っかかったのか、フェンリルもやはり不思議そうに首を傾げていた。
「私は貴様達の中でフェンリルと呼ばれておるのだろう? ならフェンリルと呼べばいいのではないか?」
「いや、それじゃ何か素っ気ないだろ? そっちが俺を人間って呼ぶのと同じだ、だからフェンリルって呼ぶのは違うし他のフェンリルに出会った時に困る」
「ふむ、とはいえ私以外のフェンリルなどそうそう会うことなどあるまいが…まぁ好きに呼べ」
「じゃあ…そうだなぁ…、フェン…いや違う、リルだ!安直で悪いけどリルって呼ぶ事にする」
フェンリルから後ろの二文字を取ってリル。この巨体には少し可愛らしすぎる名前だけど女の子っぽい感じもあってそう決めた。
「むー…確かに安直だな…。だが響きは気に入ったぞ、私に名付けた人間も貴様が始めてだしな。うむ、今後はリルと呼ぶがいい!ディランよ!」
「ああ、改めてよろしく、リル!」
少し安直な名前にむくれるリルだが、何だかんだと名前自体は気に入ったようだ。
とりあえずは人喰いの森に入って7日目、漸くにして人間ではないが言葉を交わせる相手と出会えたし、水場と住むに良さそうな場所は確保できた。ここから俺は改めて農民としての生活を始めようと思う。