【ざまぁ】を書く作家と書かない作家、好む者と嫌う者様々に、何だかタイトル見てるだけで係争問題に発展してると判り面白い話ではありますが一つ、争いの仲裁に問題の答えを置いてみようかと……
色々と考察された方や、感情露わに反論する方、ただの嫌悪を恰も論で悪者に仕立てる方。
そのどれもに一様の思いがしたためられているのでしょう。
なので私は読みませんでした。
何故なら、私がコレを書くのにどれかを読んでは、そのどれかに引っ張られた話になりそうだったからです。
それ程にタイトルからでも伝わる滲み出る思い!!
いや、重い! 重過ぎます。
けれど試しに幾つか、対ざまぁタイトルの作者の他作品のタイトルを覗くと、それはもう楽しそうに書いたであろう作品タイトルの数々に私
やっぱ、そうでしょ。
と、思わざるを得ませんでした。
何が? って、嫌悪や批判する側の作品タイトルからも、どの作家さんにも楽しそうに書いただろうなと判る作品があります。
そう、ざまぁを書く作家も楽しんで書いた作品の一つです。
まあ、私の様な遅筆だと楽しんでる筈が途中から追われてる感を背負いながらになりますが……
では、嫌悪や批判する側だけが勘違いしているのか? え俺が私が悪いのか? と敵意を向けられてもなので、その嫌悪や批判に答えを一つ置いてみようと思ったのが、今回私がコレを書こうとした理由なのです。
その答えとは……
いえ、ざまぁとは? ですね。
【ざまぁとは、勧善懲悪である。】
私がこれを言う核心として、様々な考察から色々と書かれている様ですが、その中には読んで無いので凡そを予想するに心理学的講述や日本文献的考察や歳の差や世相に関するものでしょう。
ですが、私これから提示するものをググってみたのですが、なろう関係に該当するページは検索にありませんでした。
なので、恐らくはコレを記して説いた方はいらっしゃらないと思いまして、満を持して置かせて頂きます。
こと特に日本の文学云々を問われた方が、あ! と、思い出し、争う心の扉も本を閉じるように蔵めて貰えればいいなと思います。
それでは、核心たる答えを以下に……
『勧善懲悪』作者:織田作之助
この作品の始まりを知っていますか?
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ざまあ見ろ。
可哀相に到頭落ちぶれてしまったね。報いが来たんだよ。良い気味だ。
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ざまぁです(笑)
この作品は既に著作権が切れ青空文庫にも在ります。
かの文豪が既に書いております故。
批判するも嫌悪するも文豪をまでも否定されますか?
ちなみにコレは、詐欺をするもそれを叩くも悪なりと解く話。全く以って昨今流行りのざまぁそのものです。
詰まる処、「昔からあるとはいえ最近のは特にざまぁばかりで酷いじゃないか」等と、けしからん的に最近の風潮に対する物言いも恥ずかしくなる程に、昔からある文学なのです。
むしろ、逆撫でするような事を言わせて貰えば……
「何一つとして新しい文学の扉を叩きも開きもしてもいないのに、何を偉そうに新しい文学を語るかの如くに他者の作品を説いているのか!」
と、文豪とされる織田作之助ですらも当時の文学の停滞に新しい何かを求めていたのに、それから凡そ世紀を超えて尚、まだそんな事を言っているのかと笑われますよ。
勿論、ざまぁという流行りにタダ乗りしてるとか、悪い事を仕返しなら良しとするのは子供に悪いとか……
それ等はざまぁ云々以前の問題であって、物語と現実の区別も出来ない時点でその人となりが倫理的にアウトなのです。
そもそも昨今の日本人が倫理観の喪失状態にあるのは、様々に利権を有する団体がプロ市民活動を加速させている事にもあり、それ等に甘い社会人たる大人がしてきた問題が表面化しているに他なりません。
例えば、あなたの住む地域において
・元は河川の道路は建物は置けず細街路等となっていますが、何処かの学者がこれは河川では無く田畑の用水路だった可能性が高い。等と訴える。
・元は戦時下の引き込み線等は大抵が自転車専用道路に区分されていますが、突如として道路だから歩行者優先に安全に通れる様にと訴え皆で歩いて巡る会を起てて参加者を募る。
これは、その後に土地の売却に関した補助金利権を有する団体がしている事で、それを進める政治家や業界の後援団体です。
あなたはそれ等に協力したり、一緒になって自転車がぁwww等と歩行者の安全を唱う方々のアンケートや話を広めたりしていませんか?
それ等が結果として、何をしても好転しない政治にも繋がり、歴史や史跡をも平然と塗り替え、倫理観の喪失にも繋がります。
けれど政治や団体は怖いからと放置またはそれ等に乗り、自転車叩きタバコ叩き漫画叩きと利権有する団体に有意なファシズム的思想に子供を巻き込んでいるのです。
つまり、子供の教育的な問題の本質はざまぁ系作品云々ではなく、そういった大人として反するべき利権や思想に対し、戦わない事を美徳とする大人の卑怯な放置が子供の思想にも繁栄されます。
子供にはむしろ、ざまぁを通じて反面教師にすれば良く、その問題点のみを指摘する役目が育てる大人にあるのですから。
そして、ざまぁを好む方々も物語と現実を混同させたら人として終わりです。いえ、大人としても。そして、子供だと言うのなら読むのは親とにしなさい。
それだけの事でしょう。
私は新しい文学を求めます。
ここからは私についての事ですが
とりあえずに私はアメコミ的小説を目指して、オノマトペを敢えてト書きでは無く
――KORE――
を用いて書いています。
そして、ざまぁにおいても新しい事を試そうと先に結果を出した短編『白日の下に晒す。』に、遡って始まりの物語から中丸美鈴シリーズとして括り
新たな短編『黒い箱に滴る蜜の味。』と『解いてはならぬ金の紐。』を書いています。
先日その二話目『解いてはならぬ金の紐。』を上げたのですが、反応からして恐らく読者は ポカーン だった様ですが、そうかもなぁ……
と、言うのも私、シリーズとして書くのにキーワードとして最初(時系列的にはラスト)『白日の下に晒す。』にざまぁもう遅い等を設定しており、そこに繋げる作品に、そのキーワードを解くのもどうかと考え付けてはいるのですが……
『解いてはならぬ金の紐。』の話は出会いの部分で一向にざまぁは無いのです。
しかし、シリーズつまり物語全体ではざまぁである事に、付けていないのもまたおかしく……
なので、其処に気付いた方は『白日の下に晒す。』へと確認に読まれた様です。
まあ現段階に評価は無いのも頷けますけど、元々が評価も感想も何の反応も無いままに数十万文字を連ね一年程も連載を続けていた私からすれば、文句すらも無いのを肯定的に捉えて良いのかにも迷う所で、私の底辺作家ぶりに笑えて来ました。
(連載はまだ続いていますが、只今調べ物に難儀し滞り一時停止中でして、其処で色々と他の作品を書いている訳です)
ただ、読んで頂いた方々には楽しんで貰いたく、結果を知ったざまぁの本意を、過去から始めた物語で隠れていたざまぁを知って貰うという展開に、ネット小説ならではの短編シリーズの応用を試しています。
文学にも世の中にも正解なんてないのです。
あるのは世間と世俗。
それが世界に広がる人の業。
私は文学に触れ学ぶよりも、文学を始める事で学ぶ事にしました。