第六話 律花といつき
第六話 律花といつき
舶来のものや、西洋由来のものが好きだったという祖父の遺した家は、広い庭と、そのために庭を必要とした大きな剣道場を除けば、むしろ古風な日本家屋ではなく、中流家庭のビジネスマンが一念発起して建てた戸建て、という程度には現代的で、ごくごくありふれた外見をしていた。
なにしろ寝付いたらそちらのほうが楽だろう、介護する側もされる側も──そんなロジックで元気なうちから夫婦揃って低反発の高級ベッドを愛用し、邸内に和室を、小さな床の間ひとつしか置かなかった祖父である。合理的というか、もう少し古来からのわびさび云々といったものはなかったのかというべきか。そういう人の血を、いつきも引いている。
「ん……」
そんな祖父も亡くなり。祖母がひとりで暮らすこの家にいつきが越してきて、もう半月ほどになる。
祖母はどうせ使い道なんかないから、と自分の年金から気前よく、いつきに新品のベッドを買い与えてくれて。空いていた二階の、こじんまりとした南向きの部屋を子ども部屋として使わせてくれた。これといって深く掘り下げる趣味もないいつきだったから、洋服以外は本棚と座卓を持ち込む程度で、祖母と暮らす家での自室には事足りた。
そういう日常が、はじまった。
いや。あれは……日常だったのだろうか?
「……あれ、現実。なんだよね」
朝。目覚めたそのままに、ぼんやりと天井を見上げる。
築四十年ほどを数える家は、一見きれいに見えてもところどころに古めかしさをそこに刻む。見上げた先には、クマの顔のようなかたちのシミがあって、なんだかそれが微笑ましい。
ベッドの上に身を起こす。思い出すのは、昨日の出来事。
久遠と出会ったこと──再会を、果たしたこと。そのことはいつきの心の奥を、あたたかな気持ちにしてくれて。自分の中の彼に、呟く。
よかったね、ヴォル──、って。
「でも、あれは」
だがそんな気持ちばかりではいられない。
襲撃者の存在が、いつきを惑わせる。
不意に訪れた、仇敵。自分自身と、クオンの仇。
幸いにして正面切って戦えば、それは大した相手ではなかった。不意打ちだったからこそ自分を、クオンをあの敵は殺害し得た──久遠によって、討ち取られたのがその証左だった。
──いや、そもそも。なぜ久遠は、クオンとしての力を取り戻せたのだろう?
魔力なんて概念、この世界では絵空事でしかない。それを運用する魔術という技能、技術も同様に、よくて古代に廃れたものか、都市伝説といった代物だ。
この物質文明の発達した世界に存在しえない力を、遥かな過去の自分と同じように久遠は行使し得た。一見しただけではかつてと遜色なく思えるほどに。
「!」
考えはじめれば、きりがなかった。しかしそれを遮るように、携帯のメッセージ・アプリが文書の受信を告げる。
深手を負い多くの血を失った影響は、しっかりと晩ご飯を食べて、ぐっすりと眠れば殆ど残ってはいなかった。激しい運動なんかをすれば別だろうけれど、生憎とこちとら運動音痴の文科系に生まれた人間である。もともとそんなに部活だなんだと、朝からどたばた、飛び跳ねるような生活は送っていない。
「──久遠?」
携帯の画面パスワードを解除すると、表示されるのは出会ったばかりの、いや、再会を果たしたばかりの少女の名。そしてその、メッセージ。
パジャマのまま立ち上がり、カーテンを押しやって窓の外を見る。
ふっと、顔が綻んでいくのが自分でもわかった。
「……おはよ」
聞こえないのを承知で、声に出す。窓の外、玄関の向こう。
こちらを見上げて小さく手を振る、ポニーテールの女子高生の姿に。
心躍っている自分が、わかった。
* * *
それで。たった一日で随分仲良くなったんだね、おふたりさん。
──お昼どき。一緒に囲んだお弁当のランチタイムに、不意に眼鏡の少女がそう言葉を投げかけた。
「え」
自分のお弁当箱からつまんだ、ぎざぎざのフライドポテトをくわえながら、彼女は久遠と不破さんとを、交互に眺めている。
「え、あ。いや──まあ、ちょっとね」
「ま、いいけどね。不破さんもやたら元気でうるさいやつに捕まったね」
「え。別に、そんな」
律花は行儀悪く、手を使わずにポテトを咀嚼していく。やめなさいって、そういうの。
言えば「だってこのほうが手、汚れないじゃん」だとか屁理屈で返されるのがわかっているから言わないけれど。
シニカルで、冷めている。久遠の幼なじみであるところの律花というのは、そういうやつなのだ。
付き合ってみれば全然、悪い奴じゃないんだけどなぁ。
面食らってないかな、不破さん。
「えと。まあ、こういうやつだから、こいつ。あんまし気にしないで」
お昼は決まって、律花とふたりで。小学生の頃からのお決まりである。せっかくだからと今朝、登校途中に不破さんを誘ってみたのだけれど。
ふたりの間を行き交うやりとりに、出会って二日目というには近すぎる距離のようなものを、察しの良い律花は読み取ったらしい。
「久遠」
「はいっ? え、ごめん。なに?」
やれやれ、と溜め息を吐いていると、不意に不破さんが肩を叩く。叩くというか、つんつん、つついてくる。
びくりとして応じると、彼女は教室の、扉のほうを指し示した。
「バスケ部の人。呼んでる」
「あ。はーい、今行きまーす」
部活の先輩が、扉のところで手招きをしていた。たぶん、来月の大会に向けての打ち合わせだろう。
もしかしたら、けっこうかかるかも。
ちょっとふたりきりにしてしまうけど……ま、いいか。大丈夫だろ。
楽観的に、久遠は立ち上がった。
* * *
「久遠は──バスケ、好きなんですね」
「うん?」
「いや、素朴に。部活に打ち込んでるって、いいなぁって」
「なに、それ。別に久遠だけに限ったことじゃないでしょ」
当たり前のこと言ってる。変なの。言って、近宮さんは──たしか、近宮 律花というフルネームを彼女はしていたと思う、紙パックの豆乳をすする。
っていうか。気のせいか。
なんか、当たりきつくない?
「ねえ、不破さん」
「あ、は、はい」
警戒されているのかな。なにぶん、ほぼ初対面のようなものだし。昨日はとくに、校内ではほかのクラスメートに囲まれるばかりで、彼女や久遠とは会話も交わさずに終わったことだし。
久遠も久遠だ。お昼に紹介だけして、自分はあっさり退席するって。あの子は前世の頃からそういうがさつなところがある──……。
そんなことを心中にてぼやきつつ、身構えている自分がいた。
腕組みをした少女はいつきを探るように、ぐるりと全身を一周見渡して。
「不破さん」
「は、はい?」
「さっき、久遠は友だちになったって言ってたけど。あれ、嘘でしょ」
「えっ」
「少なくとも、もっとずっと前から知ってたでしょ。お互い」
それは──そうなんだけど。図星ではあるものの、どう応じるべきか、いつきは一瞬迷う。前世から、なんて言えるはずもないし。久遠が曖昧に誤魔化した理由も納得できるし。
「それはその──、」
「いーよ、別に隠さなくって。こちとらあいつと付き合い長いからさ。あんまし知らない交友関係がお互い、少ないってだけで。そんなの、ゼロじゃないもの。どこで知り合ったんだろうなーって、ずっと考えてた」
幼なじみの、腐れ縁ってやつ。あいつ、勉強てんでダメでさー。夏休みに塾とか通っても、宿題わかんなくって結局あたしが教える羽目になる二度手間。
ややオーバーアクションに肩を竦めてみせる近宮さん。
「ああ……なるほど」
結局のところ、なんだかんだ言いながら世話焼きなわけだ。
久遠に対して。気にかけてくれている。だからいつきのことが気になった。
──いい人なんだ。唐揚げを頬張る近宮さんに、思う。
「そうね。久遠のことは、ずっと、ずっと昔から。いろいろあって……ね」
よく知ってる。大切に思ってる。
嘘はつきたくないと思った。だから言える範囲を、伝える。
自分が前世での付き合いだったなら。
彼女は久遠にとって、今の人生で一番付き合いの長い友人なのだから。大切にしたいと思った。
「そっか。──うん、そう。わかった」
その気持ちが伝わればいいな、と思っていた。
幸いにして汲み取ってくれたのか、彼女は微笑とともに体制を崩して、軽く頷いてくれた。
「そういや、不破さん部活は? どうするの。久遠と同じバスケ部?」
「あー……いや、わたし運動はてんでダメで。かといってこれといって打ち込む趣味もなくって」
「あ、そうなん? じゃ、うち入る? 文芸部。図書室こもって本読むだけ。書いてるやつもいるけど──超ラクだよ」
「近宮さん」
そんな彼女に、歩み寄ってみようと思った。
「いつきでいい」
そのたった六文字で、彼女には伝わるはずだから。そう、感じられたから。
それくらいなら、大した労力もなにもなかった。
一瞬きょとんと動きを止めた、言葉を切った彼女はやがて、笑ってくれた。
「──そう。そうね。……いつき」
くしゃっとした笑顔を、そのときはじめて彼女はいつきに向けてくれた。
「うん。改めて、よろしく。──律花」
久遠に対してはあれほど悩んだのに、彼女に対してはなぜか、すんなりと、その呼び名がふさわしく思えて、口から出た。
友だちって、こういうことなのかな。
あたたかで、悪くない気分だった。
(つづく)
初戦闘後の日常回でした。
楽しんでいただけたでしょうか?