第四話 わたしたちの、仇 2
第四話 わたしたちの、仇 2
自分の中にある前世の記憶に対して、懐疑的となったことがまるでないわけではなかった。
なにしろ、証明するものなどこの世のどこにもない。あるのはそれが確かに自身の身に起こったものだという実感と、それに対する根拠のない確信だけ。
だからこれまで絶対的に、久遠は「クオン」ではなく、久遠として常に生きてくることができたし、思い起こしても不可逆なものとして懐旧をするだけの遠い光景と納得するよりなかった。幻、同然だった。
だからせめて祈った。かつての生、先生と呼んだ男性が自分同様、満ち足りた転生を果たしていること。
そして出会ったと思ったとき、身体を駆け抜けたのは悦びであり、確かめたいという衝動だった。
「不破さん! ……不破さん、ねえ起きて! 返事、してっ!」
だというのに。その願いを果たせぬまま久遠は、「クオン」としてその結末を与えられたのと同様に今、喪おうとしている。
せっかく遥かな時を超えて再会を果たせたかもしれない、かつての恩師。あるいは、いやきっとそうだと彼女自身が考える少女を。
不破さんは、……長身の少女は、久遠と折り重なり倒れて、苦しげに息を吐く。
その背中は制服のブレザーやシルクの下着ごと切り裂かれて、夥しい出血に塗れている。抱いた掌をじっとりと濡らすその感触が、彼女の生命の危機を、久遠に告げている。
いったい、どういうことなんだ。なんだっていうんだ。どうして、こうなっているんだ。──混乱が、久遠の脳裏を更なる混乱に満たしていく。
ヴォル先生だ。この人はきっとヴォル先生だ。そう思える人に、出会えた。
その人に直接、確かめようとして。久遠をクオンとして思い出してもらえたら、と思って、追いかけた。
そう、ここまではいい。この段階までは、久遠だって自分がなにをやっているかわかっていたし、自覚もあった。期待の中、動いていた。
だけど今は違う。
あの影は、なんだ。死神じみた、あの黒いやつは。
敵──なのか。……敵? この平和な世界で? 魔物も怪物もいない、物質文明が発展したこの現代世界で、敵? 人間同士が諍い、争う際に同族同士でささやかにそう呼称しあう程度にしか用いられることのないその言葉が適用される、あれは相手なのか?
そしてあれはきっと、かつて私や先生を殺した存在だ。まったく同じものかどうかはわからない。けれどそれは間違いなく類するもの。
その敵が、突如として現れた。そして問答無用に、不意にその刃を振り下ろしてきた。
不破さんは、そんな私を庇って、深手を負った。会ったばかりの私を──、
「く、……お、ん……」
「!」
呻くような声を耳にして、久遠は我に返る。
掠れた、ひゅうひゅうと出入りをするばかりの荒い呼吸。それを繰り返す、血の気の失せた不破さんの顔。だけれど微か、細く目を開いた不破さんはこちらをたしかに見て、辛うじての言葉を紡ぐ。
「く、おん……くお……ん……」
「不破さん? 不破さん! よかった、意識、あるんだね? 待ってて、すぐに病院に──……」
すぐに、運ぶから。大丈夫、運動神経はいいほうだから、このくらい。
そう伝えようとした。けれど半死半生の深手を負った彼女は弱々しく、微かに首を左右させて。
「にげ、て」
「え……?」
「にげ、て。はや、く」
久遠に、この場を離れるよう促す。
自分になどかまうな。自分が助かることを最優先に──そう、言うように。
「なに言ってるの! すごい血だよ……不破さん、死んじゃうよ!」
承服できるわけがなかった。彼女を抱きとめた体勢から這いずり出ようとする。おんぶすればきっと、彼女だって運べる。そう思っていた。既に彼女の出血を浴びて、久遠の制服もまた真っ赤に染まり切っている。はやく、しないと。
「クオン、なんだね」
「!」
けれど彼女は、久遠を振りほどこうとする。
その意思を両腕に込めようとして──しかし血を失いすぎた彼女の身体は不破さん自身の意志のもとにも、もはやびくともしなかった。
荒い呼吸に喘ぎながら、もはや頭すら持ち上げられなくなりながら。転入生の少女は久遠へと囁く。
「──よか、った。今度は、まも、れた。また、会えた──あな、た、を」
お前を、先に死なせずに済んだ。ほんのひとときでも、護れた。
それは、決定的な言葉。
「あ……」
そんな言葉を紡げる存在を、久遠はひとりしか知らない。
「せん……せい……?」
やっぱり。──この人は、私の大切な人だった。
「ごめ……ん、ね……」
きちんと、護れなくて。
それは口調こそ、少女のものだった。この世界で生まれ育った、同い年の女の子から向けられたものだった。だけれどその裏側には、たしかな信頼と、なつかしき慈愛とがある。
護ろうとした者から、その対象である者に対して。
先生から、クオンに向けられた、遥かな年月を超えた言葉──……。
「せん、せい。──先生、ヴォル先生……っ」
この人が。ヴォル先生だった。私の大切な、私の師父。護りたかった人。
それは一瞬確かに、久遠の中に感動と喜びとをもたらした。
だが状況は、それにただ身を委ねることを許してはくれなかった。
「!」
ゆらりと、大鎌の襲撃者が蠢き、近付いてくる。
音もなく、ローブを揺らして。
「……なん、なんだよ……あんた……っ」
理不尽が、そこにはある。
訳も分からず殺され、生まれ変わり。
今やっと、師弟は再び巡り合えた。
だというのに、やはり状況もなにもわからないまま、かつてと同じ相手にふたり、殺されようとしている。
「やだ。こんなの、いやだ」
今は明確に、敵の姿が見えているのに。先生だって、不破さんだって見えていたはずなのに。
逆に今は、自分たちには脅威へと対抗しうる手段がない。降りかかる火の粉を、払えない。
かつてのように、戦う力がない。ごくありふれた少女でしかないから。
私たちはこの世界に生まれて。普通に暮らし、普通に育ち。戦場になんて立ったこともない、ただの高校生だから。
「ふざ、けんな……っ」
巡り合わせが、悪すぎるだろう。
どこの神だ、仏だ。運命だか、人生だかの調整、下手くそか。わざわざ二回も殺しに来るなんて。冗談じゃない。
こんなの、受け容れられない。
黒ローブの襲撃者が、大鎌を振りかざす。なんの抵抗もできない。
このままでは、終わってしまう。
また、自分自身も。大切な人も護れぬままに。
こんな終わり方で、いいのか。
「いいわけ……ないでしょうがあああぁぁぁっ!!」
こんなことで終わって、たまるもんか。
もはや声も発せないほど朦朧としきった不破さんを抱いたまま、久遠は叫ぶ。
この状況を打開する、具体的な手段がこの手にあるわけもない。それでも現実を、拒む。
死なせない。死なせるもんか。
死なない。死ぬもんか、こんなところで。
「人生経験、二度目舐めんなっ! 私は騎士で、女子高生なんだからッ!」
振り下ろされる切っ先から、視線をけっして外すことなく。久遠はその瞬間を迎えた。
再び、命を落とす瞬間を。
決定的な死が訪れる、その時を。
迎えながら、拒んだ。
たとえ首を落とされたって。八つ裂きにされたって、死んでなんてやるもんか。
生きてやる。
今度こそ先生とともに生きのびてやる──……!
* * *
安心とすまなさの同居する中に、自分の生命は消えゆくのだと思っていた。
刃によって負った傷は、即座の致命傷でこそなかったにせよ、一介の、非力な女子高生が耐えうる出血量ではない。そのくらいはかつて、聖騎士と呼ばれるほどの地位にあった身としてわかる。その感覚と、知識が記憶として残っている。
傷を塞ぎ、完全な止血をしなければ。間違いなく失血死をする。
前世の肉体であればともかく、運動とほぼ無縁の人生を送ってきたこの身が、自身の筋肉の収縮のみで、止血を行えるはずもない。
いつきは、死を悟っていた。
最期に、今度こそ大切な教え子を護れたのだと、自身の中にある「ヴォル」としての部分が満足さを抱いてもいた。
あとはどうにか自力で逃げ延びてくれ。そう祈っていた。
「──……っ?」
だから事態が、呑み込めなかった。
頬に。横たえた身体に、熱さを感じた。──死していない、自分がいた。
「これは……?」
そしていつきは気付く。自身を取り巻く炎に。
柔らかく、優しく燃え続けるそれは、いつきを護るように取り囲む。
いつきはそれを知っている。それがなにか、過去の生において幾度となく触れてきた。
「不破さん。……ううん、先生」
それは、クオンの炎。
護るべきものを護り、敵を打ち倒す。護りぬくための、彼女の優しい炎だ──。
「私。治癒はあんまり得意じゃないけどさ。止血をして、傷塞ぐくらいはできるんだよ。……思い出した?」
やがて声に導かれるように見上げたその先に、騎士がいた。
黄金に縁どられた、紅蓮の色のケープ。それは炎に揺らぎ、はためき。
白亜のスカートは、凛々しい騎士の出で立ちにあって、少女の持つ少女らしさをそこなわず。
しなやかな筋肉に満ちた両脚は、黒地のニーハイと、鋼の騎士鎧にブーツごと包まれて防護されている。
胸に煌めくのは、そう。王国騎士団の正式団員の証、その紋章──。
煌びやかな装飾と、紅の戦闘装束とが。炎の色に照らされて、灼熱の風に舞い上がる。
「く……おん……?」
今の彼女は、無力な女子高生ではない。
かつての生と同じ姿、同じ力。同じ──騎士だ。
「今度は私が、護るから」
なぜ、彼女が今、そうなっているのかわからない。
彼女自身きっと、わかってはいないのだろう。だけれど。
「護れる力が、なんだか返ってきたみたいだから」
その力と、少女の意志は紛れもない真実だった。
今わの際の幻でもなければ、朦朧の中に揺蕩う夢でもない。
そこにいるのは自身が手塩にかけた騎士、クオンが力を宿した──その、生まれ変わり。
焔小路、久遠だった。
(つづく)
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