第三話 わたしたちの、仇 1
第三話 わたしたちの、仇 1
不破 いつきは、視線を感じている。
授業の合間。休み時間と問わず。折につけて、こちらに向けられた一対のそれを、認識している。
その発射地点は、窓際の一角。ひとりの、赤毛の。ポニーテールの少女から、いつきに向かい明確に、投げかけられている。
「──じゃあ、不破さん。お祖母さんとふたり暮らしなんだ」
今こうして、転入生に興味津々なクラスメートたちに囲まれて質問攻めにあっているこの瞬間も。その視線が感じられる。
「ええ。古い剣道場を、祖父の代までやっていて。道場主の祖父はもう亡くなってしまったけれど」
しきりにこちらを見ている彼女が、気にならないわけはなかった。
なにより、今朝。最初に教室に入ってきて。まず目に留まったのが、彼女だったのだから。
彼女の髪の色に、面影に。懐かしさを感じた。
手塩にかけて育てた教え子の姿が、こちらを見返してくる表情に重なった。
──まさか、ね。
いつきの中にある『ヴォル』としての感覚が、そう感じたのである。
そしてあちらも、しきりに繰り返し、こちらを気にしている。なにかいつきを見て、気付いたこと。思うところがあるのだろうか? あるいは、もしかして。もしか、するなら──。
──いや。それでも。まさかは、まさかでしかない。
それでもこれは、わたしの。いいや『俺の』、感傷だと思うのだ。
あの少女に、喪った教え子の面影が重なったとして。そんなの、空似による偶然かなにかだろう。
前世の記憶を残しての、異なる世界への生まれ変わり。そんなごく稀すぎるにもほどがあるケースが、都合よく近しいふたりについて揃い起こり得るはずがない。
そんなに便利に、容易く起きるのならば。
テレビのオカルト番組や都市伝説なんかで、前世の記憶を持つ人間などが時折、もの珍しさの口角に載るものではない。「ああ、そうか」と当たり前に思われるはずだ。
縋るな。『ヴォル』。
わたしは、いつきだ。それ以外の誰でもない。お前でもない。
もうこの世のどこにも、クオンはいない。お前が護れなかった、そのせいで喪われた。
彼女の首が刎ねられる絶望の一瞬を、お前は今わの際に見たのだろう。
その後悔を、新たな生に持ち込むな。わたしに押し付けるな──……。
もしも彼女に教え子の面影を見たのなら、そっとしていろ。こちらから関わろうとするな。──関わりたい、確かめたいと思っている『俺』を、わたし自身わかっているから。それはやってはいけないことなんだ。
そうだ。過去と今。ふたつの世界はなにもかも、違う。近づけて考えるべきではない。
「剣道場かー。なら、剣道得意なの?」
この身体が、性別すら異なっていたように。
「いいえ。少し、祖父に昔習ったけれど。……わたし、運動音痴で、苦手で。体力ないから」
かつての聖騎士としての力など欠片もこの身にはなく、人並み以下の運動神経にいつきが生まれ育ち、本を愛し友としたように、だ。
異なるふたつを無理に重ねるべきではない。
クオンは、この世界にはいない。
かけがえのない、『俺』の娘は。もう、どこにも。
* * *
今回の転入は──転居は、父の海外赴任による急なものだった。
高齢の祖母を独りにして海外に行くのを渋った父と、海外に居を移すのを不安に思ったいつき自身の希望とが合致した形である。
転入先の高校について、学力的に不安はなかった。運動音痴の代わりに、幼い頃から勉強だけはよくできて、自信のあったいつきだったから。
「──……?」
急な転入だったから、まだ教科書がすべて、手元に揃っていなかった。
幸いにしてクラスメートたちは皆親切だったし、初日にしては比較的打ち解けられたといっていいやりとりが出来たから、訊けばすんなり、売っている本屋を教えてくれた。
物理と、化学。幸いにして今日は授業がなかったから、助かった。
親切な同じクラスの少女たちに聞いた小さな町の本屋でそれらを手に入れて。転入早々だけれど、そういえばそろそろ、文系か理系か──大学を、進路を絞っていかなくてはいけないな、なんて思いつつ、自動ドアを出た。
「あっ」
そこで、こちらを見る視線と、尾行をする気配とを感じた。
なんてベタな、尾行だろう。いつきが振り返った瞬間、その追跡者は電柱の影に身を隠す。……おもいっきりはみ出ていて、隠しきれていないけど。おもいっきり声、聞こえたけど。
ちらちらと見える、赤毛のポニー。朝の、あの子だ。
ため息、ひとつ。これ以上付きまとわれるのも面倒だし、だいたいクラスメートなんだからもっと、堂々としていればいい。
電柱に隠れる──隠れたつもりになっている同級生に、歩いていく。
「あの」
そして身を縮こまらせる彼女を、覗き込む。
びくりと肩を竦めたその子は、恐る恐るといった風にゆっくりと、こちらを振り返って。
目が合うと、──目の前にいつきがいることを知り、自分に逃げ場がないことを悟ると、気まずげに頬を掻く。
「あ……あ、はは」
「笑ってごまかさないで。……尾行、してたでしょ」
目を逸らす彼女を、いつきの切れ長の瞳が睨む。
「同じクラスでしょ。朝からずっと、こっち見てた。たしか──」
たしか、そう。
「焔小路さん」
いつきがその名を呼ぶと、……苗字だったが──ぴくり、と彼女は一瞬、反応を見せる。まるでいつきがそう呼ぶことを、不自然に思うように。
「久遠」
「え」
「久遠でいいよ、不破さん」
く、おん。──クオン?
それがこの子の、名前?
「私。不破さんに訊きたいことがあるんだ。どうしても」
だからこっそり追いかけちゃった。ごめん。
クオンと同じ名前の少女。
まっすぐにこちらを見据えて謝るその姿は、いつきの中にある遥かな旧い記憶と重なって。
忘れようと努めていた少女の顔を、思い起こさせる。
そんな。まさか。──いや、在り得ない。そんな都合の良いことが起こることなんて、あるはずが──……。
「ひょっとして、私の名前に心当たりがあるの。なにか、ひっかかるの」
否定を繰り返す脳裏の声を、耳という肉体の部分から入ってくる少女の声が、厳然と打ち消していく。
「不破さん。違ってたらゴメン。でも、もしかしたら。もしかして、だけど。あなたは──……」
* * *
久遠の言いかけた言葉は、最後までいつきの耳には届かなかった。
否。届いていないことに、途中で久遠は気付いた。
「──……不破、さん?」
彼女の目が、自分ではないどこか遠くに注がれていること。
ただそれだけを注視して、まったくぶれることなく、微動だにせずにいること。
しかし一方で彼女が、震えている。凝視をしたまま、なにかに戦慄をしている。そのことにも、気付く。
「なんで」
「──え?」
蒼ざめ、硬直した表情の転入生。彼女が見ていたもの。
「なんで、アレが」
──『アレ?』
その言葉を確かめんと、久遠は振り返ろうとした。
瞬間、その身を包み込むものがあった。
それは長身の少女の、両腕。その大きな身体が久遠を護り、庇うように強く抱き寄せて。
両者の身体の前後を、入れ替える。彼女がそうすることによってようやく、久遠はそこにあったものを知る。
彼女が、見たもの。久遠から遠ざけようと、とっさに庇ったものの正体を。
「ク、オン」
そして聴く。少女が、かつて確かに聴いたその声音を滲ませながら、少女自身の声に重ねて、久遠の名を、「クオン」と呼んだのを。
響きは同じ。しかし込められたものの違う、その呼び名。
凶刃から久遠を庇い、その背中を切り裂かれながら──少女はそれでも両腕を離さなかった。
黒き刃。それは死神の如き、大鎌。その一閃は久遠の視界の先に、抱き寄せた少女の鮮血を巻き上げ、飛び散らせて。
久遠の中にあの日の記憶を呼び起こしていく。
あの、刃は。まき散らされていく、血の軌跡は。その舞い落ちた、飛沫の跡は。
──そうだ。あの日、死にゆく先生の周囲に飛び散っていたもの。
騎士であった久遠には……『クオン』にはわかる。刃の斬撃。その切り口は間違いない、生命消えゆく先生の身体に刻まれていたものと、同じ。
大鎌振るいしその存在は、漆黒。
黒いローブと、フードに身を隠して。返り血を浴びて、そこに佇む。それは黒い、死神。
「こいつ、が」
あの日、こいつが先生を。──私を、殺したのか。
それは前世にては与えられなかった回答。そして同時に、なぜ今更に再来をしたのかを理解しえぬ災厄。
ここは、先生やクオンが生きた世界ではない。
かの世界で、クオンと先生は死んだ。
この世界と繋がりなんてものはなにもなくて、もはや久遠は騎士ですらない。
「不破さん……不破さんっ! しっかりして!」
ずしりとのしかかる、長身の少女の体重に押しつぶされながら、久遠は彼女とふたり、折り重なるようにして崩れ落ち、倒れる。
いったい、なにがどうなっている。
今、目の前にあるこの事態すべてが、久遠にとって日常を遠く離れた、理解の範疇を超えるものだった。
(つづく)
本日も二話連続更新です。