第二話 先生の面影の、少女 2
第二話 先生の面影の、少女 2
自分の中にかつての記憶が存在している。その事実に気づき、明白に認識したのはいつの頃だったろう? その記憶と、今の自分との間に生じる感性のズレを、理解し納得したのは。
いつきは自問する。
かつての自分。今の自分。比べる自分が、常に心のどこかにいる。
──『遥か昔、前世のわたしは騎士だった。別の世界で、賞賛を受ける腕前の、騎士だった』
ありえない。荒唐無稽な話だ。夢見がちな子どもというには、高校生という年齢はもう年長が過ぎる。言ったところで、誰が信じるものか。
前世の記憶を宿している。それはあまりにファンタジーで。言葉だけならば、童話や小説の中の代物にしか思えない。
だが、これは現実だ。真実として、いつきの中にその「あるはずのない記憶」は残っている。
「リラックスをして。転入してくるなんてそうそうないことだから、緊張するのも無理ないとは思うけれど」
「──はい」
昨日、顔を合わせたばかりの担任教師が言う。
緊張を解そうとしてくれているのはわかる。しかし別に、この状況に緊張をしていて足取りが重い、というわけではなかった。
小学校高学年の頃には、同年代の少年少女たちを見下ろしていた長身の、いつきである。他者からの奇異の目には慣れている。
なによりずっと他者と、自分との違いについて考え、たびたび悩んできたこの十七年だった。そういうずれた人生を送ってきた、いつきである。
いつきの記憶にあるもの。それが濃密であり鮮烈だからこそ、今ここにある自分とのギャップに苦しむ。
記憶の中、いつきはこの世界の人間ではなかった。
それはゲームの中のような、剣と魔法の世界。
その世界において、いつきは男性だった。
屈強でしなやかな体躯を、引き締まった筋肉に包んだ剣士。聖騎士と呼ばれていた自分を、たしかに覚えている。戦い、勝ち取り、護る日々。
盛りすぎだ。夢でも見たんじゃないか。漫画家になれるんじゃないか。口にすればそういう反応が待っているだろうから、これまで誰にも言えなかった記憶。
けれどこれはたしかにかつて、「あったこと」で。
今もいつきが憶えている、「あったこと」なのだ。
幼い頃からの鍛錬。
騎士として頭角をあらわし始めたばかりの頃の、死闘、激闘。心が、身体が憶えている──ものごころつく前からそれは、夢想や空想というにはあまりにも鮮明に思い起こされて。
ここではない世界、異世界『ディ=クス』での日々。それ以外に世界があるなどと思いもしなかった、日常があった頃のこと。
その土台があった。スタート地点の優位があったこともあって、いつきはいつきとして、これまでの人生を優等生として育ってこれた。
ただし、そうやって過ごす日々の中、心の奥底に常に残り続ける感情がある。あの日の光景に、たどり着く。
栄光から、落日に変わった日。血と、痛みと。無念の記憶。
護るべき存在だった少女のこと。
護れなかった、無力さ。少女の前で息絶えていく、無念さ。
俺の、終焉。私、いつきとなる、前の出来事。
ああ。わたしの──俺の。護れなかったあの子は、その魂は今どこで、なにをしているだろうか。
死者の国を彷徨い、未だ俺を探しているだろうか。
それとも、自分のように新たな生を、肉体を得。すべてを忘れて、次なる日々を安寧に過ごしてくれているだろうか──……?
「さ、行こうか」
黒髪のいつきは、担任の声に頷く。
いかにもな若手教師である彼は教室の扉に手をかけて、軽く振り返って。いつきの反応に、満足げに頷いて。
いつきを、誘う。彼の担当する、いつきのこれから加わるべき教室へと。
そうだ──わたしは、加わるだけ。
生まれ変わった、この世界で。いつきとして淡々と生きていくだけだ。
過去とはまるで、なにもかもが違うこの世界に。なにもかも、持ち込めやしない幻想を記憶の中に残したまま、異物として加わったように。
今のわたしは、──ヴォル=アンク・リーベライトではない。聖騎士なんかじゃない。
あの頃の俺とは、違う。──わたしは、不破 いつき。ただの、転入生で。ただの、女子高生なのだから。
この世界で俺が、……いいや、わたしが戦うことなんて起こり得ない。
そう、この平和な世界で──。
* * *
間違いない。あの人は──あの人は、きっと。
「久遠?」
その人の姿に、椅子から腰を浮かせている自分がいた。
おっとりとしていて、物静かな女の子であることが、その少女の外見から、雰囲気からは伝わってくる。
それは頼もしさとか、力強さといった類の印象からは到底、かけ離れていて。
なのに、その姿に面影が重なる。久遠はそこに、自分の知る人を見る。
自分と同じ、ここではない世界の匂いを──感じ取る。
「せん、せい」
立ち上がった久遠を、律花が見上げて眉を顰めていた。
転入生に集中していたはずの、クラス一同の視線が久遠へと割れ、行先を二分させる。
「どうした、焔小路」
「──あ、……いや。なんでも、ないです」
その中で彼女が我に返ったのは、担任教師の怪訝そうな表情と、応じる声とによってだった。
口走ろうとした言葉。──先生、なんて。この教室内では、当然現実にはひとりしかいないというのに。彼ではない、その隣にいる転入生の少女を自分は、そう呼ぼうとした。
すごすごと、浮かせた腰を下ろしていく。
転入生は、……不破さんというその少女は、隣に立つ担任に釣られるように、久遠を見ていた。
そう、……たしかに、見つめていた。
その、切れ長の双眸を一瞬、それまでより僅か、見開いて。
少女の見せたその反応は、久遠の瞳の中に明確なものとして、映っていた。
久遠に気付き。
久遠を見つけて。
久遠の見せた動作や行動によるものとは違う部分で、彼女は久遠に対し「驚いて」いた。
それは初対面の人間に対する怪訝や困惑とも違う。
久遠が、そこにいた。だから不破さんは驚いた。久遠という存在、そのものに対して、だ。
やっぱり、だ。
「どうしたの、久遠」
やっぱり、あの人は、間違いない。あの反応。ほかの人にはわからなくとも、たしかに一瞬、動揺をしていた。
担任に促され、彼女は指示された座席に教壇から降りていく。
その中に、久遠は再びの繋がりを認識する。
ほんの僅か、横目に流された視線。それが、こちらを。久遠へと向けられているのを。
気のせいや勘違いではない。たった一瞬、一瞬だけとはいえ、彼女は意図的に、明確にこちらを見て。その視線は久遠のそれと交差をした。
すなわちその行為は、あちらも久遠に対しなにかを感じたということ。
「久遠ってば」
「ああ……うん。なんでも、ない」
すぐに視線は、彼女の正面へと戻っていて。もう久遠を見ることはなかった。
でも、きっともう。間違い、ない。
律花に、ぎこちなく返しながら前を向く。
「先生」
誰にも聞こえない、微かな声で、殆ど口の中で、その呼び名を呟く。
──ヴォル、先生。
それは久遠が、クオンとして生きた中で最もかけがえなくて、大切だった人。
目を伏せれば、思い起こされる。
転入生。不破さんの無表情な、そして物静かな顔。そこに重なって浮かびあがる、彼の顔。
彼との日々。親代わりとして育ててくれた人の、笑顔。
その、最期の光景。
あの日、私は先生を救えなかった。瞼を閉じた自分の表情が、今きっと歪んでいる。その自覚を、久遠は抱く。
あれは王国騎士団の、正式入団を賭けた試験の日。
絶対の自信があった。先生に教わったすべてを出して、合格をするのだと。
先生のよく知る団員の面々も、顔見知りだった。彼ら、彼女らからも「はやく来い」と応援を受けて、挑んだ試験だった。
歓迎と期待とに応えるように、クオンは勝ち取った。すべては先生を驚かせ、喜ばせるための、内緒の受験であり、入団だった。
聖騎士と呼ばれ、単独行動を主とする遊撃隊員として多忙に在った先生に隠すのは容易で、先輩団員たちも皆快く、協力してくれていた。
そう。それは祝祭の日。
祝祭であった日が、終焉の日へと、変わった──最期の日。
今、目の前にあるこの穏やかな日常が嘘のようにすら思えるその光景は、人生の最後にやってきた地獄だった。
「──先生が今、この世界にいる」
日々を過ごし、先生と暮らした、親しみ深い丸木造りの我が家。
そこにあった、馴染みの調度品の数々は叩き割られ、砕かれ、へし折られて。
破壊の爪痕を、刻んでいた。
思い出のすべてが破壊されていた。そう表現してもいいくらいに、なにもかもが、変わり果てていた。
吉報を手に、息せききって戻ったクオンを迎えたのは、そんな死した我が家と。
その中心。暖炉の前の絨毯に、全身を広げ横たわる、恩師の姿だった。
駆け寄ったとき、師の身体はまだあたたかかった。まだ微かに、息を残していた。
血みどろのその身体を、──ひと目見て助かりようのないその師を抱き起したとき、それがクオンの最期の光景となった。
「……先生。あのとき、いったいなにが、なにがあったのですか」
痛みは一瞬。世界がぐるりと、反転をした。
ごとり、と音がした。なにか硬く広いものが頬に当たったのが分かった。今思えば、あれは私が崩れ落ちた、音。
なにかが近くで重なりあい、くずおれる、どさりという音。
私が先生を、巻き込んだ音。
クオンの意識は、そこで終わった。──それからどういった経緯ゆえか、クオンは『久遠』として、生まれ変わったのだ。
そうやって喪った師が、
そうやって生まれ変わった久遠の前に、いる。
今はただ、それだけでよかった。
(つづく)
本日はここまで。以降は毎日1話ずつ更新していきます(予定。近々リアルの生活で引っ越しを控えているので少し滞るかもしれません)。
楽しんでいただけると幸いです。それでは。