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第一話 先生の面影の、少女 1


        第一話 先生の面影の、少女 1

 


 不意に、思い出すことがある。

 苦手な数学の、授業中。居眠りの、夢うつつの中。

 あるいは家での、晩ご飯の準備の中。くつくつと鍋の中に煮えていく、カレーをおたまでかき回すその一瞬に。

 ずっと、ずっと昔。

 幼い頃や、生まれたばかりなどといったその頃を超えた──それは、遥かな以前の記憶だった。

 焔小路 久遠(ほむらこうじ くおん)は、覚えている。そんな遠い遠い、かつての自分を。遥か以前の自分がいったい、なんであったのかを。

 部活の朝練に勤しむ、今このときもそう。

 所属する、バスケットボール部。朝の練習を締めくくるミニゲームの只中に放った、得意のスリーポイントシュートの、「間違いのない」軌道を確信し、手応えに頷きながら。

 脳裏に思い起こしている。まっすぐに、天高く伸びるその軌道に重ねている。

 敬愛していた、育ての師父の背中。聖騎士と人々から呼ばれたその人の、最も得意としていた一撃を。天まで届くほどにまっすぐと伸びて、どんな凶暴な、手の付けられない獣でさえ一瞬で穿ち貫いていった、その刃を。

 久遠はありありと思い出せる。

 すべては、久遠が、久遠となる前の記憶を宿しているから。

 ここではない世界に生きる、ひとりの騎士。久遠はそのひとり娘であり、その見習いだった。

 血は繋がらずとも、父と呼んだ。そして師と呼んだ人。

 肉親の顔すら知らぬ、孤児だったかつての少女を、その人は愛情を注ぎ、育て、鍛えてくれた。

 久遠の内にあるのはそんな、遠い遠い世界の過去。ここにある日常からは遥か、彼方の異世界のお話。

 

「──よしっ」

 

 ゴールリングにボールが吸い込まれていく。快哉の短い声とともに、天高く拳を握る。

 リボンでまとめた赤毛のポニーテールが、開け放たれた体育館の扉から吹き抜ける風に乗って、ふわりと舞った。

 クオン。──かつてのその名と同じ名を、久遠として、この世界に生まれ落ちた娘に両親が授けてくれたのはいかなる運命の僥倖だったのか。

 かつての生の記憶を宿し、異なるこの世界に新たな生を受けたこと。それは幸運なのか、偶然なのか。

 旧き記憶は、久遠の心をあたたかくする。幼き頃から、思い起こすたびに。

 今目の前にあるこの世界を、久遠は愛してもいた。

 焔小路 久遠は、高校二年生。遥か遥か遠い過去、ここではない別の世界での記憶を持って生まれ、そして「クオン」であった頃のそれを宿し続けている──……。

 

                  *   *   *

 

 近宮 律花(ちかみや りっか)は、久遠にとって一番付き合いの長い、幼なじみである。

 もちろん、この世界に生まれてからの、だ。

 

「転入生、来るってよ」

 

 久遠にはかつての生の記憶がある。それを宿したまま、高校生という年齢のここまで育ち、成長をしてきた。

 それは幼さや思春期による空想や妄想などではなくて、……もちろん他者に言えばそういう反応をされるのは明白すぎることだから、分別も思慮の浅い幼かったひと頃に、この眼鏡をかけた友人、律花に子ども同士の夢見がちな会話として幾たびか漏らしたことがある程度だけれど、たしかにあった人生の記憶だった。

 今、ここにある焔小路 久遠が現実なら、

 遠い過去、異なる世界に存在したクオン=フラム・リーベライトというその騎士の人生も、たしかに現実として在ったものなのだ。

 

「転校生? ──なにそれ、漫画やドラマみたいな」

 

 うち、私立校だよね? それもわりと偏差値高めの。わざわざ学期の途中で転入してくるとは珍しい──けっこう転入試験、難しいんじゃなかったっけ。よく、受かったね。

 朝練後、ホームルーム前。窓際の、自分の席に腰を下ろした久遠に、幼なじみは語りかけてきた。そして久遠の返した淡白な反応に、呆れたように言った。

 

「いっつも落第ぎりぎりのあんたがそれ言うかね」

「べっつにー。綱渡りから落ちたこと、ありませんから」

「はいはい」

 

 今、間違いなく久遠は、現代人としてのこの生活を謳歌している。

 紙パックの野菜ジュースをすすり、手ぬぐいみたいに肩から掛けたタオルで、がさつに部活の汗を拭いて。親友とは、他愛のない話を交わして。女子高生としてなんでもない人生を生きている。……勉強はあまり得意ではないのは、ここでは内緒だ。

 それは記憶の彼方にあるそれとはまるで違うけれど、この日本に生まれた人間として久遠がけっして違和感を感じることはない。

 聖騎士の見習いだった頃、鍛錬に勤しんだ魔術の力はどこにもなくとも。

 自分に不満のない、常識的な範囲内で両親は、久遠を豊かな運動神経の身体に生み落としてくれた。

 過去の世界には存在しなかったバスケットボールを知り、出会い。中学からずっと打ち込んできた。──時折、剣道くらいやっておけばよかったかな、と、自分の中の武人としての部分に疚しさを憶えないではなかったけれど。それでも、日常生活において、身体の中にある剣士としての記憶を活用せねばならない局面などありはしなかった。

 そのくらい、この世界は平和で、穏やかで。煉獄と戦乱の世界に生まれ変わったのではないことを久遠に感謝させるには十分だった。

 

「そんで? 律花、こないだの後輩クンとはどうなったの? 告白されたんでしょ?」

「どうって、別に。ほぼ初対面だし、よくも知らないし。本気ならもっと自分を売り込んで、私に定着させてからもう一回挑んで来いって追い返したわよ」

「……わー、辛らつ」

「優しいわよ、だいぶん。その場で『知らん、無理』でばっさり行かなかっただけ」

 

 こうやって、友人の色恋に笑っていられる。それは世界が平和だからだ。騎士や、剣士や、聖騎士なんてものが必要ないくらい。その力が人々を日常的に護らねばならない世界では、ここはけっしてない──……。

 

「そう言う、久遠はどうなのよ。あんたもけっこう人気でしょ」

「んー? そうなの……かなぁ。部活の女の子はけっこう下のコたちも寄ってきてくれるんだけど」

 

 いろいろ、差し入れをもらったりもする。

 がんばってください、と後輩の女の子から声をかけられることも多い。

 

「あいにく、男の子はねぇ」

「なーにがあいにくよ、なにが。もともと同級生とかじゃあ、恋愛対象の男子としては眼中にないくせに」

「いや、そういうわけでは」

 

 別に、興味がないわけではない。前世も女、今だって思春期真っ盛りの女子高生なんだから。

 ただ、そう。ただ思うのだ。この世界に同じように、生まれ変わっていてくれたら、と願いを抱く人が、自分にはいるということを。

 久遠に──クオンにとって、男性とはすなわちその人の幻影との比較対象とならざるを得なかった。

 その人はいつだって、頼もしい背中でクオンを導いてくれた人。

 孤児だったクオンを拾い、育て。厳しくも優しく、騎士となるために教えを授けてくれた。憧れ、追いつきたいと思った。あのような自分でありたいと、願い己を磨いた。

 ──我が、師父。ヴォル=アンク・リーベライト。

 

「ただ……男の人は、頼もしい人がいいよねって。それだけ」

 

 師よ。あなたは今、どこで。なにをしていますか。

 敬愛する師。クオンと同じ日に散った師。一瞬陰りを差す記憶に、律花へと悟られないほど微かに眉根を寄せ、表情を曇らせながら。思う。穏やかな気持ちが、その表情をすぐに塗りつぶしてくれる。

 ああ、師よ。願わくば──あなたが生まれ変わるのなら、私の生まれ落ちたこの世界のように、平和で穏やかな世界がその先でありますように。

 ホームルームの、始業のチャイムが鳴る。

 男子も女子も、ざわついていた教室はどたばたとそれぞれが各々の座席へと戻る喧騒に一瞬、そのボリュームを増し。そして次第に萎んでいく。

 教室の扉のガラス窓に、担任の姿が映る。──そしてその僅か後ろに、もうひとつの人影も。

 

「え」

 

 久遠の漏らしたその小さな吃驚の声に、後ろの席の律花以外、気付いた者は果たしていただろうか?

 おそらくは、誰もいなかったと思う。

 教室内の一同の視線は皆、担任と、そしてその後ろについて入ってくる、長身の少女──転入生のみに注がれ。意識もそこに集中していたのだから。

 

「……え。……え?」

 

 そしてそれは、久遠にしても同じことだった。

 いや。むしろ教室のほかの誰よりも、久遠の視線はぶれることなく、一点に注がれていた。

 その、黒髪の。美しい少女へと。

 制服の、ブレザーのボタンを折り目正しく、きちんと下まで留めた、その少女。

 チェック柄のプリーツスカートから覗く両脚を包む、黒いストッキングのきめ細かさが、その繊細さを象徴しているかのようによく似合っているその女の子。

 白地に五線譜の楽譜の一行が描かれた特徴的なカチューシャを、控えめにその前髪に飾ったその転入生は、在り得ざるはずの印象を、久遠に与えていた。

 切れ長で、穏やかで。どこか眠たげなようにすら思える、面立ちの少女。

 担任に紹介を受けて、その少女はぺこりと、新しく自身が加わるクラスメートたちに頭を下げる。

 

「──不破、いつきです」

 

 その雰囲気も、面立ちも。なにも似ていない。

 なにより、彼女は女の子。少女だ。性別からして、違う。

 ──なのに、わかってしまった。久遠は、『クオン』だったから。理解が、できてしまった。

 

「よろしく、おねがいします」

 

 その人物が、自分と同じ過去を持つのだと。

 彼女が敬愛し、祈り続けていたその人に、相違ないと。

 こちらにまだ気づいてすらいないその物静かな少女に、在りし日のその人が重なって見えた。

 つきかけていた頬杖に、顎を着陸させることなく、少女の姿に魅入り、硬直をしたまま。声なき声で、久遠は、──クオンは、その人の名を呼ぶ。

 

 ──ヴォル先生、と。

 

 

             (つづく)


というわけで、新連載始めさせていただきました。

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