第十六話 友の言葉に、少女は決める 1
第十六話 友の言葉に、少女は決める 1
早朝の、道場の静けさに満ちた空気は、嫌いではない。
運動音痴を自覚する、スポーツや武道といった、身体を動かす類の行為にてんで向かないいつきである。幼い頃からこの場所は知っていたし、足も踏み入れていたけれど、実際にここで鍛錬と呼べるなにかをしたことなど、祖父の存命の頃、父に連れられての帰省の折、数えるほどしかない。
剣道の、師範であった祖父である。孫を可愛がる意味合いとしての稽古であったからそこに厳格さや強要などありはしなかったけれど、それでもわざわざいつきのために道着を用意してくれて、いつきがこの祖父母の家を訪れるたび、その皺だらけの手でいつきの両手を包むように、指導を施してくれた。
祖父が鬼籍に入ってなお、その孫を思いやり慈しんでくれる想いは、この家と、遺された祖母とにまだ染み渡っているのだろう。
いったい何年ぶりにこの家で寝食をするようになったかすら曖昧な、高校生という年齢に成長をしたいつきのために、祖母はかつてと変わることなく、真新しい、ぴったりの寸法をした道着を用意してくれていた。
白の上着に、黒の袴。今朝はじめて袖を通したその道着からは、なんだか懐かしい匂いがした。
そうやって、支えられている。見守られている。いつきが安らげるよう、思うようにできるために、精一杯の気遣いをしてくれている。
周囲をとりまくその状況に重々、そう感じながら。感謝をしながら──閉じた双眸の裏側に、落ち着かぬ瞑想をしている自分を自覚して、いつきは未熟な自分による罪悪感を感じざるを得ない。
こんなにも恵まれた日常がある。この平和な世界で。害されることを恐れず、平和に生きられているのに。
わたしが欲しいものは、別のところにある。
瞑想が、心の平穏をもたらしてくれない。焦燥感と不安と。自分自身への不満とを痛感する時間へと、化してしまっている。
「──最低だ、わたし」
力が、欲しい。
久遠の隣に並び立つことのできる力が。
その思いは、日を追うごとに強まっている。
あの人。大学生で、いつきたちの知る限りこの世界で唯一、久遠以外に魔力を操ることのできる女性が現れてから。
久遠の紅と対をなすような彼女の深い蒼を見たわたしは、嫉妬をしている。いつきはその自覚を否定できない。
わたしが本来、あの位置にいなくてはいけないのに。
わたしが久遠を──クオンを護らなくては、ならないのに。
わたしがやらなくちゃ、いけないことなのに。
「ヴォル。あなたの。わたしの力はどこにいってしまったの」
もう、取り戻すことはできないの。教えてよ、誰か。
ただ心の中、いつきは問い続ける。解決策を、なにひとつ見いだせないままに。
* * *
こないだ教えてもらった通り、大学までの道とかに魔力、ばら撒いておいたよ。
部活の朝練終わり、ホームルームまでそんなに時間に余裕があるというわけではないけれど、久遠は椿さんからかかってきた電話に校舎裏、応じている。
一応、学校内での通話はご法度。教師に見つかるまでにとっとと切り上げないと。そんな二重の焦りを密か抱えつつ、同時に突如として現れてくれたこの協力者に対する感謝も、彼女の胸にはあった。
──『ま、学校のあいだはりっちゃんたちのこと頼むよ。さすがに大学からじゃなにかあっても遠すぎてどうにもならん』
その相手が顔見知りであったのも、正直助かった、と思う。
久遠と不破さんの事情は無論伝えてはいたけれど、それでもよく知った間柄だからこそ、簡略化したり、行間を読んでもらえたりして、説明が楽になった部分が少なからずあったから。
──『相方の子。いつきちゃんだっけ、大事にしてやんなよ』
そう言って、椿さんからの電話が切れる。
「──もちろん、ですよ」
彼女の心にあったその「もちろん」と、電話口の向こうで告げられたことの間には齟齬があったのだけれど、しかし久遠には残念ながら、それに気づくことはできなかった。
自分が、師を護ること。それは久遠にとって当然のことでありすぎて。
言われるまでもなく、久遠には不破さんは、護るべき、大事にするべき相手であったから。その、大事という二文字に含まれる成分の、両者の差異にまで意識が届かなかったのである。
「私が、先生を護るから」
先生と、この街を。
どんなやつがきたって。なにがあったって。
せっかく生まれ変わって、先生とまた出会えたこの世界なんだもの。
今の暮らしを、生活を。壊させたり、するもんか。
ホームルームの予鈴が鳴って、急ぎ汗だくの練習着を着替えに、久遠はバスケ部の部室へと戻っていく。
そんな決意と、慌ただしさとがあったのを、彼女の状況を考えるうえで加味しなければきっと、不公平だった。
彼女自身はこのとき、気付き得なかったことが、まだ他にあったのである。
それは、自身が見られていたということ。
彼女が細心の注意を払い、周囲を警戒し。そのうえでなお、気付けたかどうか、というその相手は、久遠の走り去ったそこに、入れ替わるように靴底へと砂利を踏んで、現れる。
彼女とは、学年違いのリボンタイの色をした、少女。そのおかげで彼女の年齢が、久遠のそれよりひとつ上なのだということだけは、わかる。
三つ編みの。長いおさげを揺らしたその人物はただ、久遠の消えていった体育館を、その扉を。眇めた双眸に、睨み見つめていたのである。
その視線はけっして、好意的と呼ぶにはほど遠いものであった。
そして破局は。けっして遠いものでは、ない。
* * *
「いまいち、まだよくわからないんだけど」
お昼。お弁当の時間。
教室では、他の人たちに声が聴こえすぎるから、と。適当な空き教室を探して三人、やってきたランチタイムである。
「なにが?」
菓子パンの袋を破きながら、律花から向けられた言葉に久遠は首を傾げる。
それは別に、律花がいったいなにを訊きたいか、その見当がつかないからではなくて。
「そりゃ、いろいろよ」
そう、いろいろ疑問は尽きないだろうな、と思っている。
これまで起こった出来事に。その背景にあるものに──まさしく、いろいろと。
「久遠といつきちゃんが前世では親子同然の師弟関係で。そのときの記憶が残ってるってのはわかったよ。そんで、なんか知らないけど襲ってくる連中がいることも。椿さんが似たような力持ってるってのも、びっくりはしたけど理解もした。だけどさ」
そもそも、騎士って、なに。
なにを護って、なにを戦ってたの。そもそも。
コンビニのおにぎりを剥く律花。その問いは、……うん、なるほど。たしかにその根本的なところが、この世界の人には理解しにくいかもしれない。
久遠は不破さんと目線を交わすと、頷きあう。いいよね、伝えても。
ただ、うまく伝わるだろうか? これは久遠や、不破さんがかつて生きた世界では当然で、あまりに当然すぎて、感覚的に受け容れていたこと。
そういうものと、ごく自然に一般常識として日常に存在したことだから──そう、たとえばこの世界、この時代においてテレビやスマートフォンといった機械が当たり前に存在して、あちらの世界には似通ったものすら機械技術としては到底存在し得なかったように。
私たちのこと。
騎士のこと。
魔力や、魔術のこと。
「私たちみたいに、剣技や武道を鍛錬したり、身に着けたりして、そこに魔術を組み合わせて戦う人間を、私たちの世界では騎士って呼んでたの」
暮らしていた王国には騎士団もあって。私はその見習い。
「あんた、剣道とかやってたっけ」
「前世での話、前世の。記憶もあるし身体も覚えてるんだからいいでしょ。話の腰折るなっつーの」
「あ、そ。んでいつきちゃんは?」
「先生は遊撃担当。数少ない、単独行動を許された独立戦力。聖騎士、ってみんなからは呼ばれてた、すごい人だったんだよ」
へえー。しげしげと、律花は不破さんを見る。
視線を向けられた不破さんは困ったように苦笑いを浮かべて、恥ずかしげに、縮こまる。自嘲気味の言葉を、漏らす。
「……今は、見る影もないけどね」
「でも、ほんとのことだもん」
「んで久遠は前世で、前世のいつきちゃんにその騎士としてのなんたるかー、を学んだわけだ」
「そー、そゆこと」
先生に教わった技で、力で。みんなを護る騎士になりたかったんだ。
「騎士の仕事は、こっちでいう警察とか、あとは自衛隊、猟友会とか。そういう「護る」ための組織が全部ごった煮になったような感じ。この世界みたいに街がひたすら都会―、って感じでもなかったから。ちょっと街から外れれば自然も盛りだくさんでさ。野生動物なんかもうじゃうじゃいたし」
「久遠……」
ごった煮って。盛りだくさんって。うじゃうじゃって。
不破さんの目線がつっこみの色を帯びて、ジト目気味にこちらに向けられる。
表現が適当で、あまりにざっくりしすぎでしょ、その説明。たぶん、そう言いたいのだろう。
いいじゃん。伝われば。感覚的に納得出来たら、今はいいじゃない。
「中でも、「暴獣」って呼ばれるくらい暴れん坊で、大型の野獣に関しては騎士じゃないと相手できないくらいだったから。主にはそういうのから、森や街道で襲われた人たちを護るのが騎士のお仕事」
「暴獣……ほんとに猟友会みたいなんだね」
「だから称号はともかくとして。椿さんもこないだの感じだと、十分に騎士だって言えると思うよ。ね、先生」
そう言って会話を振ると、不破さんはどきりとしたように、お弁当に伸ばしていた箸を止めて。
一瞬、目を惑わせる。
なにか、ひっかかりがあるような仕草だった。なんだか納得を百パーセントには、していないような。
「──うん。そうね。格闘技も強いみたいだし、一応の条件としては満たしていると思う」
騎士だ、なんだと言って巻き込むのは気が引けるけれど。
そういって言葉を濁しながら、しかし不破さんは同意を示し、頷いた。
「そっか」
──そう、なんだ。
ぽつりと言った律花も、なんだか元気なく、俯く。
なにか、ヘンなこと。言っていただろうか。彼女のリアクションを怪訝に思い、助け船を求めるように不破さんを見ると、大丈夫、という風に目を伏せて、小さく首を上下に振ってくれる。
大丈夫よ、伝えるべきことはちゃんと伝えられている──言外に、そう告げてくれている。
「──じゃあさ、もうひとつ。あと、これだけ」
「うん?」
食べかけのおにぎりをビニールの上に置いて、律花は顔を上げる。
「私たちを襲ってきたあいつら。あれを操ってるやつがいるんだよね。そういう連中が、前世の世界にはいたんだよね。だったら、人間相手にも戦うの? ……久遠たちは、ヒトを斬ったことが、あるってこと?」
そう。それは感覚の差。
「──え」
悪を、害為す者を斬る。それは騎士として当然。当たり前のことで。
かつての生においてなにも疑問を感じることのなかった常識。騎士として生きていくうえで、そうすることが生業であったがゆえに。
そんな問い、思ったことも、向けられたこともなかった。
騎士の力を取り戻してからも、思いもしなかった。
イエス、という以外の返答は偽りになってしまう、そういう性質の質問。
だけれどそれは律花にとっては当然の問い。
この現代日本で、現実に他人を斬ったことのある女子高生が果たしてどれだけいるというのか。そんなの、日本全国くまなく探したってよほどの事情がない限り、いやしない。
律花だからじゃない。久遠たちがこの世界に今生きているからこそ、向けられて当然の、避けて通れぬ問いであったのだ──……。
(つづく)